星空と虹の橋の小説を掲載しています。

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(画像省略) 朝から、なんだか全身が重だるいとは思っていた。 気のせい。熱も出て…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

こんな日は素直に休みましょう


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 朝から、なんだか全身が重だるいとは思っていた。
 気のせい。熱も出ていない。栄養ドリンクの力があれば一日乗り切れるぐらいの違和感。そう言い聞かせて出勤したものの、時間が経つにつれて重さはどんどん増していき……。
「ちょ、(のぼる)くん!?」
 一休みしようとソファに腰掛けた瞬間、ぐらりと視界が揺れる。身体が傾いていくのを理解しているのに抗えない。
 所長の声にも応えられず、記憶も途切れた。

  * * * *

「あれ、おれ……」
 ふと目を開けると、職場でも自宅でもない壁がぼんやりと映った。ただ、最近は見慣れつつある。
「あ、目が覚めた?」
 声をした方に首を動かすと、所長が手にしたお盆を傍らのテーブルに置きながら腰を下ろした。明らかに安堵した様子で頭を優しく撫でてくれる。
「全く、びっくりしたよ。昇くん、事務所で倒れたの覚えてる?」
「えっと、なんか急に力が抜けたのは……」
「熱が出てたよ? 朝からあったんでしょ」
「いえ、朝は全然。ちょっとだるいなーくらいで」
 所長は溜め息をついて、おれの鼻を軽くつまんだ。
「それは立派な体調不良なんだから休んでください。所長命令です」
「……ごめんなさい。今日は梓さんが有休取ってたんで、お休みするわけにはいかないと思って」
 おれが勤める探偵事務所は、所長である諸見雪孝(もろみゆきたか)さんとおれ、三浦昇(みうらのぼる)、女性で先輩の田野上梓(たのうえあずさ)さんの三人で切り盛りしている。忙しいときはとことん忙しく、暇なときは今日臨時休業にすればよかったと所長が漏らすくらい暇な、たぶん一般的な事務所だ。
 おれは入所して二年くらいしか経っていないが、その間に所長と恋人同士になるとは想像もしていなかった。今では、年上なのに独占欲強めな彼のことが(ときどき呆れつつも)愛おしく、可愛くも思っている。
「今日は来客予定もないし、書類整理と締め切りがずいぶん先の調査ぐらいしかやることないから大丈夫だよ」
 それもわかってはいたが、探偵事務所という性質上、突然仕事が舞い込むことだってある。
「そういえば所長、事務所は?」
「今日はもう閉めたよ。君が心配だし、さすがに一人にしておけないから」
 結局迷惑をかけてしまった。謝るしかできないおれに、所長は布団をぽんぽんと叩く。
「この間まで忙しかったし、疲れが出たのかもね。僕もいい休暇になるよ」
「看病が、ですか?」
「なるよ~? だって恋人を思いっきり甘やかせるんだもん」

 所長――雪孝さんがウインクしながらの笑みを向けてくる。おれを元気づけるための態度だとわかっているから、素直に受け取った。
「いつも君に怒られてばっかりだから、こういうところでポイント稼がないとね」
「それは所長のせいです」
「職場で抱きついたりキスしようとしたりするから?」
「自覚あるならやめてもらいたいもんです」
「うんうん。口はいつもの昇くんだ」
 まるで子ども扱いだが、風邪で弱っているからか変にくすぐったく感じる。
「あ、お粥持ってきたんだけど食べられる? 薬飲んでほしいから、ちょっとでも食べてもらいたいんだけど」
 あまり食欲はないが、相変わらず心配顔の雪孝さんを少しでも安心させたいし、早く治すためにも従うことにする。
 雪孝さんに背中を支えられながら身体を起こすと、予想以上の怠さに驚いてしまった。朝、出勤できたのがとても信じられない。
「こういうとき、お粥手作りしましたーって言えたら格好いいのにね」
 おれも人のことは言えないが、料理はからっきしな雪孝さんだ。
「……雪孝さんが、こうしてそばにいてくれるだけで、嬉しいです」
 熱がもっと上がりそうで顔は見られないが、それだけは伝えたい。仮に休んでいたとしても、一人きりでは心細くて、雪孝さんにわがままを言ってしまっていたかもしれない。
「今日はずいぶん素直だね、昇。風邪引いてなかったらこのままたっぷり可愛がるのに、惜しいなぁ」
 残念なような、体調不良で助かったような……。
「あ、でも」
 頬を包んできた雪孝さんの唇が、きれいな三日月を描く。
「治ったら覚悟しておいてね?」
「……が、がんばり、ます?」
 かなりズレた返事をしてしまった。吹き出した雪孝さんを無視して、お粥の盛られた器に手を伸ばす。
「あ、だめだめ。僕が食べさせたいの」
 言葉を詰まらせるおれに、雪孝さんはレンゲでお粥を掬い、息で冷ましてから笑顔で口元に持ってきた。
「はい、あーん」
 漫画で見たベッタベタのシチュエーションを、まさか自分で体験する羽目になるとは……。
 しかし、無下に断るのも引ける。
「あ、あーん……」
 目をつぶって口を開けると、静かにお粥が流し込まれた。控えめな塩気がちょうどよい。
「どう? 味わかる? まだ食べられそう?」
 頷くと、雪孝さんは再びレンゲを口元に持ってきた。あからさまにわくわくしていてますます羞恥心が募るも、どうにもできないから結局お世話を受け続けるしかない。
「あ、ごめん。ちょっとこぼしちゃったね」
 そろそろお腹いっぱいかも、というタイミングでレンゲが離れたあと、受け止めきれずに口端からわずかにお粥が垂れてしまった。ティッシュが見当たらないので、行儀は悪いが舐め取ってしまおう。と思っていたのに。
「っ、ん!?」
 ぬるりとした感触が、その箇所を拭う。そのまま唇全体をなぞって、離れた。
 呆然と雪孝さんを見つめると、確信犯にしか見えない笑顔が浮かんでいる。
「我慢できなくてやっちゃった」
「……っ、風邪うつりますから!」
「そうしたら昇に看病してもら」
「『仕事増やすな』って梓さんにキレられますよ」
 雪孝さんは一瞬で真顔になる。そのまま軽く咳払いをして、薬を用意してくれた。コップに注がれた水は当然雪孝さんが飲ませてくれた。
「今日は泊まっていって、明日も休むこと。別に忙しくないし、梓くんも来るし。いいね?」
 おれが素直に頷くと、頭をひと撫でしてから部屋を後にした。
 からかう態度も多かったが、たぶん自己嫌悪に陥らないよう気を遣ってくれたのだと思う。そういう面を目にするたび、やっぱり彼は「年上」なのだと実感する。
 ――早く治そう。そして今度はおれが雪孝さんを助けよう。
 目を閉じると、あっという間に意識が途切れた。


 二日後、何とか復活したおれに、梓さんが「私のおすすめ」と評したお菓子をプレゼントしてくれた。
 同時に、ある密告ももらう。
『昨日の所長はずっとそわそわしていて、仕事依頼に来た桐原(きりはら)さんにも呆れられてた。体調悪いときは素直に休みなさい』
 ……無理は禁物。いろんな意味で肝に銘じることにした。


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(画像省略)「いやはや、すっかり遅くなってしまったな」「でも、なんとか無事に報告…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

思いがけない小さな宝石たち


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「いやはや、すっかり遅くなってしまったな」
「でも、なんとか無事に報告できてよかったです。遠くまで足を運んだ甲斐がありましたね」
 外出するのが珍しい所長が隣を歩いているのは理由がある。
 今回依頼を受けた案件は(自分の目線では)結構複雑で、先輩である(あずさ)と二人での報告でも難しいこと、依頼主がそこそこ高齢で事務所まで出向いてもらうのは大変だということ。実際、所長がいなければわかりやすい報告はできなかっただろう。
 電車とバスを乗り継いで約一時間半はかかっただろうか。依頼を受けた際、とても腕のいい探偵だと知り合いに教えてもらったから、と聞いたときは、思わぬところまで名前が知れていると驚いたものだ。さすが憧れの所長の祖父なだけある。
「バスが来るまでまだ時間ありますねー……って」
 背負っていたリュックを停留所の椅子に下ろして思いきり伸びをした瞬間、思わず動きが止まってしまう。
「ん、どうした? (のぼる)くん」
「所長、見てくださいよ! 星がきれいですよ」
 都会にいると、日中でも夜でも空を見上げる、なんて動作はあまりしなくなる。
 伸びをしてよかった。
 プラネタリウム……なんてレベルまではいかないまでも、都会よりも多くの小さな煌めきが、夜空を彩っている。
「おー、本当だねぇ。この辺りは街灯が少ないから、そのおかげかな」
「さっき出発したときはまだ明るいほうかな? って思ったんですけどね。日が落ちるの早いなぁ」
「星座も見やすいね。昇くん、わかる?」
「えーと、実はさっぱりで……」
 教科書で見たことのある形はいくつか発見できたものの、名前はすっかり忘れてしまった。所長も笑っている。
「じゃあ、今度プラネタリウムデートでもしようか。今はスマホアプリで星座教えてくれるのもあるけど、実際見ながらのほうがわかりやすいと思うしね」
「えっ、しょ、所長がそんなロマンチックな……」
「君ねぇ。星座は歴史を紐解くとなかなかに面白いんだよ。一つ一つにちゃんと作られた理由がある。決してスピリチュアルな存在ではないのさ」
 そうだとしても、非科学的な存在に否定的な所長を知っていると、星座占いなどが一般的なのもあって珍しく映ってしまうのは仕方ない。
 でも、星座に少しでも詳しくなれればこういう機会があったとき、何倍も楽しめそうだ。
「そうだ、せっかくだから星空鑑賞会できるホテル泊まってみる? 前に友達とそういうホテルに行ったけど参加しなかったって言ってたし」
 柔和な笑顔で提案してくれた案に乗っかろうとして、ふと気づく。
「……おれとただ泊まりに行きたいだけだったりして」
「そんなことないよ」
 一瞬言葉に詰まったのは見間違いじゃない。
 そして、ジト目で睨まれてしまった。
「ていうか、僕と二人で朝から晩まで過ごしたくないの?」
「そ、そういう言い方しないでくださいよ! そうじゃなくて、おれ本当に知りたいんです」
 所長と夜を過ごすとなると、ほぼ確実に……である。別に構わないが、本来の目的もちゃんと済ませたい。
「オーケー。君の知的好奇心も、恋人同士の時間もちゃーんと満たせるようにするから。いいホテル探しておくね」
 にこにことした笑顔は、信じても問題ない……はず。少なくともこういうときの所長は手を抜かない。
 密かに胸を躍らせつつスマホで時間を確認すると、バスが来るまではもう少しかかりそうだった。
 ――誰もいないし、仕事も終わったし。ちょっとくらい、デート気分を味わってもいいよね。
 隣の、ちょっとたくましい腕に自分のを巻き付けて、目を丸くした所長にすり寄る。
「バスが来るまで、今見えてる星座教えてください」
 改めて見上げた星たちは、先ほどよりもどこか煌びやかに映った。

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「疑う…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】拭えないまま


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「疑う」です。

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「ごめん」
「え、いきなりどうしたんですか?」
「ずっと謝りたくて。……個人的なことだけど、君のことをずっと信用できなかったから」
 合点がいった。私を見ているようで見ていない、あの奇妙な違和感の正体。
 彼は無実の罪を被せられ、国から追われる身。
 私は大切な人を奪われ、復讐のために旅立った身。
 狙うべき敵が偶然同じかもしれないとわかり、共に行くことを決めた。
「お互い様ですよ」
「うん。でも今は君のこと、大事な仲間だと思ってる」
 何も返せなかった。
 私達の出会いは、悪い意味で必然だったんじゃ?
 私の見えないところで敵と繋がっているんじゃ?
 私はまだ、信じきれていない。
「君は、そのままでいいよ」
 私は、何も言えなかった。

#[300字SS]

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「3」…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】必然で唐突な運命


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「3」です。
先日アップした、『重なり合うブルー・アワー』 のヒロイン視点・モノローグ的な感じです。

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また、この喫茶店に来てしまった。
鞄に入れっぱなしだったレシートを広げてみたら二枚あったから、もう三回目。
あの人と昔通った喫茶店と同じ名前というだけでふらりと扉をくぐって、雰囲気はもちろん違うのに、気づいたら思い出の紅茶一杯でだいぶ長居してしまっていた。
びっくりするくらい、居心地がよかった。ほんの少しだけ、軽くなれた。
二回目も同じ、そして今も。……気のせいじゃない。
注文を取りに来るマスターの声も、まるで寄り添ってくれているみたいに心地いい。
——私、きっとまたここに来るわ。
紅茶一杯で長居するなんて迷惑かもしれないけれど……このタイミングで出会えたのは、運命としか思えないから。

#[300字SS]

2025年6月 この範囲を1話→最新話 の順番で読む この範囲をファイルに出力する

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「蝶」…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】だから、独りを選ぶ


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「蝶」です。

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一体、なにを勘違いしているの?
ふらふらと惹かれて、近づいてきたのはあなた。
私はただ、蝶のようにひらひらと飛んでいただけ。
そして休憩しに止まった場所がたまたま、あなたの近くだったというだけ。
その休憩が——きっと、長すぎた。

勘違いなのだから、私のことは忘れて。
私はもう、別の場所を飛んでいるでしょう? 追いかけても逃げるだけ。現実の蝶もそうでしょう?
もうやめなさい。意味のない行動を続けるのはもう、やめて。

私はきれいな蝶じゃない。
そんな目を向けてもらえるような、存在じゃない。

#[300字SS]

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(対象画像がありません)

「こちら、サービスです」 他に客がいないのを見計らって、紅茶を差し出す。彼女はカ…

短編・男女

短編・男女

重なり合うブルー・アワー



「こちら、サービスです」
 他に客がいないのを見計らって、紅茶を差し出す。彼女はカウンター越しに驚いた顔を向けてきた。
「え、どうして……」
「申し訳ありません。いつも悲しそうなお顔をされているので、少しでもお気持ちが紛れるようにと」
 残っていた怪訝さは、苦笑に変わる。
「土日の夕方にいつも、こちらにお邪魔してますものね。ごめんなさい、辛気くさくて」
「通っていただけて嬉しいですから、お気になさらないでください。私も出過ぎた真似をいたしました」
 無駄に鼓動を打つ心臓を押さえたい衝動に駆られながらも、軽く頭を下げる。
「いえ、ありがとうございます。……本当に、ほっとしましたから。まろやかですし、香りもすごくいいですね」
「そう言っていただけて嬉しいです」
「私、お砂糖なしのミルクティーが一番好きなんですけれど、この紅茶もすごく好きになりそうです」
 柔らかな笑みを向けられて、自然と口元が緩む。
 本当によかった。事情はわからなくとも、今は彼女の助けになれることが一番の喜びだ。


 喫茶店『ブルー・アワー』で働き始めてどれくらいの年数が経ったろう。
 カウンター席と、二人がけのテーブル席が四つほどの、本当に小規模な喫茶店。
 店員は雇わないと何度か断られたが、ならばマスターを引き継げるまで修業させてほしいと図々しくも頼み込み、二年ほど前に二代目を引き継ぐこととなった。
 それからしばらく経った頃、彼女はこの喫茶店にやってきた。
 背中まで伸びた、栗色のふわりとした髪に花柄の白シャツとロングスカート。面影はあの頃と変わらなくとも、確かに時は動いていた。
 一番の違いは——表情にいつも、翳りがあること。風でも吹けばあっという間に崩れてしまいそうな脆さを感じること。
 他人のふりを続ける決意は、記憶と違いすぎる彼女の様相を目にするたびに揺らぎ、瓦解していった。

 次の日、彼女はまた同じくらいの時間にやってきて、今度はテーブル席に腰掛けた。
 最寄り駅から徒歩で十五分はかかる場所にあるこの店は、窓から見える景色も素晴らしいと好評だ。
 俺自身も気に入っている。特に、夕方から夜にかけての時間帯――空が橙から藍色へと変化していくさまが、まるで現実と非現実を彷徨っているようで、逃げ場所を用意してくれているように感じていた。
「ご注文は何になさいますか?」
「昨日淹れていただいた紅茶、いいですか? すごく美味しくて……落ち着いたので、ぜひ」
「かしこまりました」
 彼女は相変わらず哀愁を含んだ表情を纏っている。
 少なくとも、記憶の中には存在しない。いつだって楽しそうで、眩しくて、手が届かないとわかっていても惹かれて、苦しかった。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
 目を閉じて香りを堪能している彼女にどう声をかけるべきか、食器を拭くふりをして言葉を探していたときだった。
「ここからの景色、すごく素敵ですよね」
「え、ええ。ありがとうございます。私も気に入っています」
「いつもは一人だからテーブル席は遠慮するんですけど、どうしても見てみたくて。今日は天気もいいからラッキーでした」
 自然と零れたであろう微笑みも、無理やりに見えてしまう。
「……店名には、ちょうどこの時間帯の空模様を指す意味が、込められています」
 たぶん、あなたは知っている。
「ええ。とても神秘的ですよね」
「非現実的な感じもするんです。人によって受け取り方が変わる時間だと申しましょうか。私には、救いに感じます」
 つい口を滑らせてしまった。彼女が窓に視線を向けてくれていて助かった。
「ちょっと、わかります。現実感がないのって、辛いこととかあると、助かりますよね」
 彼女が救いに感じる理由を尋ねなかった理由が、ここにある気がした。
 謎に繋がる手がかりかもしれないと逸り、続く言葉を止められない。
「……現実から、逃げられる。と?」
 こちらをゆっくり振り向いた彼女は、ただ、笑った。
 見慣れてしまったそれではなく、泣くのを堪えるように、必死に唇を持ち上げていた。
 理由はわからなくとも、「失言」だったのは間違いなかった。

 大学生のとき、ある喫茶店でアルバイトをしていた。
 当時住んでいたアパートから近いという理由だけだったが、その中では、マスターの人柄が表れているかのようにどこかゆったりとした時間が流れていて、居心地がよく、地元民含めファンも多かった。
 ある若い男女のカップルも、そうだったと思う。
 たぶん、年齢は俺よりいくつか上だった。必ず二人で訪れては楽しそうに時間を過ごしていた。
 声が好きだった。特に控えめで可愛らしい笑い声は、聞いているだけで胸の中が温かくなった。
 ころころと変わる表情が好きだった。まるでおもちゃ箱を覗く子どもの頃のように、見ていて飽きなかった。
 ――わかってはいた。全部、相手だけの特別。あの彼が一緒だから引き出せるもの。

 忘れたくとも忘れられなかった。
 大学卒業と同時に引っ越して店を辞めても、彼女への想いは、心のどこかで根付いたまま取れなかった。
 だから同じ名前の喫茶店と偶然出会った瞬間、もうこれは運命なんだと思うしか、なかった。

「いらっしゃいませ、あの」
「ええ。平日ですけど来ちゃいました。本当にこのお店が気に入ったので」
 カウンター席に腰掛けた彼女は、少なくとも今は珍しく明るい声で告げた。
「あの紅茶、ください。あとシフォンケーキもお願いします」
「か、かしこまりました」
 あの日、彼女は逃げるように店を後にしてしまった。どうしてすぐ謝罪できなかったのかと毎日後悔していたところに、まさかの来店で動揺が隠せない。
「お待たせいたしました」
 いつものようにお礼を告げて、香りを楽しんでから一度カップを傾ける。気を抜くと両足が震えそうになる。
 他の客の存在がもどかしくも、救いにもなっていた。土壇場で逃げ腰になる性格に我ながら嫌気がさす。
「すみません。紅茶、おかわりお願いできますか」
 謝罪は次回にしようと半ば諦めていたときだった。
 また、彼女は普段しない行動を取った。シフォンケーキも半分ほど残っている。
 やがて窓の外は濃い藍と街灯の光で満ち、店内の客も一人、一人と退店していく。あの日以来の二人だけの時間が訪れたのは、閉店の二十一時より一時間ほど前だった。
 使用済みの食器を重ねる音、水音が、痛いくらい店内に響く。
「訊いてもいいですか?」
 再びカウンターに戻ってきたタイミングで、声をかけられた。
 どうやら、この時間を待っていたのは彼女も同様だったらしい。うまく声が出せず、頷く。
「店主さんも、現実から逃げたいことってあるんですか?」
 まさかの、この間の会話の続きだった。
 まっすぐに見つめられて、わずかに逸らすこともできない。
「……あります。ただ、逃げたいだけでなく、気持ちを整理したいと、申しましょうか」
 彼女はじっと、言葉の続きを待っている。
「このお店にいる間は、持て余している気持ちを無理に消化しなくても、ゆっくりでいいと言ってもらえているような気がするんです。逃げと思われるかもしれませんが、私にはそれが、ありがたくて」
 サラリーマン時代にはできなかった。忘れようと足掻くほど逆に膨らんで、苦しくなるだけ。荒療治は性格的に無理だった。
「……先日は、申し訳ありません。あなたに失礼なことを申しました。正直、もう来店なさらないかと思っておりました」
「いいえ。あのときはちょっと、びっくりしただけです。それに今は私だけじゃないんだって、励みになりましたから」
 一体この人に何があったんだろう。ひとつ思い当たることと言えば、いつも一緒にいた彼の存在だが……
「それに、このお店は本当に気に入っているんです。私が引っ越す前によく通っていたお店と同じ名前なんですよ。すごい偶然ですよね」
 また、表情に陰がさした。
「珍しい、ですね。そのお店もお気に入りだったんですか?」
「ええ。マスターがとても温かい方で、お店はいつもその雰囲気で満ちてました。こちらとちょっと似ているかもしれません」
 明らかに過去を映している双眸は、言葉に似つかわしくない光で満ちている。
「ここの店名は先代がつけたものですから、きっと同じ感性だったんですね」
「そうだったんですか。てっきりマスターがつけたとばかり」
「いえ、私はまだ若輩者です。先代も気まぐれに店に立つことがあるのですが、そのたびに駄目出しをされますよ」
「若輩者……あ、でも言われてみれば、お若いかも? なんて」
「もう四十を過ぎているのですが、やっぱり若く見えますか……一応、軽く髭を生やしたりしてみているのですが」
 よかった、笑ってくれた。わずかでも気が紛れたなら嬉しい。
「店名の由来は、私の思いとは違うんです。『ブルーアワー』という言葉が好きだから、だそうです」
「なるほど。……ふふ、あのマスターと気が合いそう」
 言ってしまいたくなる。あの店で俺も働いていたのだと、あなたのことを知っていると、……ずっと、好きだったのだと。
 同時に、驚いてもいた。諦め、後ろ向きばかりだった俺がこんな衝動に駆られるとは。
「私は……このお店で過ごす間は、お客様の心のままにいられれば、少しでもそのお手伝いができれば、という思いで立っています」
「心の、ままに」
「例えば、うまくいかない日が続いていたら逃げ場所にする。頭をからっぽにしても、泣いても、怒っても。かつての私がそうでした」
 そして、用意していた飲み物を彼女の前に置く。
「蜂蜜入りホットミルクです。先日のお詫びも兼ねています」
 カップの取っ手にそっと指を絡めた彼女は、俯いたまましばらく動かなかった。
「……マスター、誰にでもこうやって手厚いケアをしているんですか?」
「必要であれば」
 ここまできたら、ただの公私混同だ。
「すごい優しい……いえ、お人好しかしら。よく言われるでしょう?」
「確かに、増えた気がします」
 それから、彼女が退店するまで会話らしい会話はなかった。
 きっと、自らの心のままに過ごしてくれていたのだと思う。

 あれから、変わった点がふたつ。
 彼女が不定期ながら平日にも訪れるようになった。
 そして、土日はテーブル席が空いていればそこを選ぶようになった。
 悲壮感は不思議と鳴りを潜め出し、見知った笑顔も増えてきたように見えた。
 嬉しい、確かに嬉しいのに、どうしても胸のざわつきが消えない。
 だって、あれほどにわかりやすく滲んでいた感情をいきなり消せるだろうか? 俺自身、彼女への想いを長く秘めていたからこそわかる。簡単に割り切ることなんてできない。
 失礼を承知でもいい、踏み込みたい。
 でも、奇跡的にここまで築けた絆を、失いたくない。

 今日は、閉店時間をいつもより三十分ほど繰り上げた。
『明日、どうしても二人きりでお話したいことがあるんです。本当に申し訳ないんですけれど……閉店後、少しだけお時間いただけませんか?』
 前日に彼女からそんなメモを受け取って、閉店後の短い時間ではたぶん足りないと予感がした。
 ブルーアワーの時間帯を過ぎてから来店した彼女は、紅茶だけでなくケーキに軽食も注文し、綺麗に平らげていた。お詫びのつもりかもしれない。
「わがままを言ってしまって本当にごめんなさい。お店、よかったんですか?」
「お気になさらないでください。私の独断ですから」
 彼女には蜂蜜入りのホットミルクを、自分にはノンカフェインのミルクコーヒーを淹れる。
 じわじわと重い沈黙が互いの間に降りる。彼女はカップを包むように持ったまま動かない。
 声をかけるべきか、だとしたらなにを? ざわつきがさらに増したのもどうすればいい?

「……私、こちらにお邪魔するのは、今日で最後になる。と思います」

 言葉の意味を呑み込めるまで、声が出なかった。
 ようやく漏れたのは、空気の抜けたような声。
「このお店も、マスターのことも、変わらず好きです。でも、」
「何か至らない点がありましたか? でしたらすぐ改善します」
「違うんです」
「でしたら、どうして……!」
 駄目だ。『ブルー・アワーの店主』の仮面が剥がれてしまう。でも、でも彼女を引き止められるなら。
 彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに潤む瞳を細め、テーブルに視線を落とした。
「……私、愛していた夫を、病気で亡くしました」
 すぐに、あの彼の姿が脳裏によみがえった。
「大学生の時に知り合って、もうこの人しかいないって、卒業してから結婚しました。……あんなに元気だったのに、本当に、信じられなかった」
 絞り出すような声に、胸が締め付けられる。彼女の眩しい笑顔を引き出していたのも、奪ってしまったのも、彼だった。
「生きる気力なんてなかった。後追いしようって何度も考えたけど、そのたびに夢の中であの人が止めるの。きっと覚悟が足りなかったのね」
 一番大切だからこそ、彼女にとっては残酷かもしれなくとも、自分の分まで生きてほしいと願ってしまう。俺もきっと同じ行動を取る。
「このお店を見つけたとき、もっと早く知りたかったって後悔したけど……今の私で来れたから、よかった。あの人と一度でも訪れていたら、たぶん、来れなかった」
 再び顔を持ち上げた彼女は、笑っていた。俺を捉える双眸も白い頬も確かに濡れているのに、眩しささえ覚えた。
「マスターのおかげです。私、ようやく前を向ける気がするんです」
 素直に喜べないのは、彼女がまた目の前から消えてしまう恐怖が上回ってしまったから。
「だから一度、夫と過ごしたこの街を離れようと思います。距離を置いて、ちゃんと気持ちを整理したいんです」
 ここでだってできる。わけがないのは明らかだった。
 どうすれば奇跡を繋ぎ止めておける? わがままだとしても手放したくない。それに……

「……ひとつ、昔話をしてもよろしいでしょうか」
 目元を拭いながら彼女が頷いたので、まっすぐ見つめながら、続ける。
「私は、大学生の時にここと同じ名前の喫茶店で、アルバイトとして働いていました」
 彼女の瞳が、丸くなる。
「その喫茶店には、ある二人の男性と女性がよく訪れていました。私は……その女性を、密かに想っておりました」
 心音が耳元で鳴っているかのようにうるさい。舌もうまく回らなくなりそうだ。
「ある程度思い出にできていると思っていたのですが……ご本人を前にしたら、全然でしたね。情けないです」
 気持ち悪く思われても仕方ない。これを理由に訪れなくなる可能性も考えると、矛盾した行動を取っている。
「俺に、チャンスをくださいませんか」
 意味がわからないと言いたげに、軽く首を傾げてくる。
「俺は、あなたがまた、この喫茶店に通ってくださると信じています」
「それは……」
 視線が泳いでいる。今の彼女の心境を考えれば、言わずとも理解はできる。
「そうしたら、改めてあなたに告白させてください。あの頃できなかったことを、果たさせてください」
 なんて図々しいのだろう。情けなく声が震える。無意識に固く握りしめていた両手を緩めようとしてもできない。
「……思い出しました。そういえば、いつも丁寧に接客してくれた店員さんがいましたね」
「その時間しか話すチャンスがありませんでしたしね」
「マスターの気持ち、全然気づかなかったな」
「店主としてきちんと仕事できていたようで、よかったです」
 正直、正解の態度がわからない。彼女が拒否の言葉を口にしないのは優しさ?
「ありがとう、ございます」
 またも、声にならない声が漏れた。
「マスターは、私の恩人ですから。そんなあなたから想ってもらえて、ありがたいです」
「い、いえ、とんでもない、です」
 全身が一気に熱くなった。たまらず、ポケットにあったハンカチで顔を拭う。
「それに、きっと私に配慮してくださったんですよね。私があんな話をしたから、って」
 見抜かれていたのか。力なく笑うしかできない。
「ここでは、今はなにも言いません」
 静かでも、確かな意思のこもった声だった。
「時間が必要ですから。私にも、たぶんマスターにも」
「……はい」
 もう、ここまで来たら信じよう。彼女と再会できて、こんな会話まで交わせるようになったのも充分すぎる奇跡だけれど、もう一度起きてほしいと願ってもきっと罰は当たらない。
 彼女のカップが、空になった。
 否応なしに、二度目の別れがやってくる。「奇跡」という二文字を糧にする日々がやってくる。
「すみません。少しだけお待ちいただけますか」
 第六感が働くというのはこういう瞬間を指すのだろうか。
 メモに使っているノートを取り出し、丁寧に文字を書き込んでいく。
「よろしければ、こちらをお持ちください」
 切り取ったページを受け取った彼女は、不思議そうに文字を追っている。
「……紅茶のレシピ、ですか?」
「あなたが気に入ってくださった、あの紅茶のです」
「そんな大事なもの、いただけないです」
 反射的に突き返された手を、そっと押し戻す。
「秘伝のレシピというわけではありませんし、大丈夫です。きっとこれからのあなたの助けになります。ですから、どうか受け取って」
 離れていても、立ち止まってしまったときは助けになりたい。
 出過ぎたお節介だとしても構わない。
「マスターは私に甘過ぎですよ。……でも、ありがとう。本当に、ありがとうございます。大切にします」
 そのとき向けられた笑顔は、手の届かないと諦めていた彼女に少し、ほんの少しだけ近づけたように思えるものだった。
「また、お待ちしております」
 店の扉をくぐった背中に、いつもと同じ言葉で送った。

『ブルーアワー』の時間帯に差し掛かり、開く扉から現れる姿を確認しては落胆するのも、すっかり慣れてしまった。
 先代の気まぐれもだいぶ控えめになり、長年通ってくれている常連にも店主姿が板に付いてきた、なんて褒められることも増えた。
 今なら、もっと上手にあの紅茶を淹れられると思う。
 ……大丈夫。忍耐力だけは無駄に鍛えられた。忘れたくとも忘れられなかった苦しみだけの時と違って、確かな繋がりがある。
 だからこそ、信じて待ち続けられる。
 時折その信念に押しつぶされそうになるけれど、彼女も頑張っていると思うだけで前をまた向ける。
「あ、すみません。ラストオーダーの時間がちょうど終わってしまったのですが……」
 閉店に向けての片付けを少しずつ始めていたとき、扉の開く音が静かに響いた。
 振り向きつつ説明して、二の句が継げなくなる。

「ごめんなさい、一足遅かったですね。ここに到着するまで少し時間がかかってしまったんです」

 外はすでに、濃い藍色で包まれている。
 だから、目の前の笑顔は間違いなく――現実だ。


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ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】また来週、確かめたいから、


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「金」です。

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(よし、今回も買えた!)
 毎週金曜日だけ、よく通うスーパーに並ぶお菓子。それを購入するのが最近のルーティンになっていた。店内手作りだから? 一週間の疲れも取れるぐらい美味しいのだ。
「いつも購入いただいてありがとうございます」
 次の週、いつもより遅くなってしまい、残り一個を無事手に取った瞬間だった。
 自分と変わらないぐらいの歳——三十辺りに見える、エプロンをつけた女性だった。
「あ、ごめんなさい。いつも嬉しそうに買われていくので気になってたんです」
「い、いえ。め、目立ちますよね」
「いいえ。嬉しいです。また来週、お越しくださいね」

 ——心音が苦しいほど速い。まさか、あの子? 嘘だ、そんなわけないのに。

#[300字SS]

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ショートショート・BL

#ワンライ

ショートショート・BL

匂いにつられた一歩先は、罠


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創作BL版深夜の60分一本勝負  のお題に挑戦しました。使用お題は「香り」です。

-------

「ねえ、その匂い……」
 ずっと気になっていた彼の、隣の席が空いていた。突き動かされるままに腰掛け、授業が終わった瞬間に口を開く。
「え、なに?」
 彼ははっきりとした戸惑いを返してきた。
「あの、その匂いはどこで?」
 眉間の皺が強まっていく。若干引いてもいるような……。
 ――急に、全身の熱が冷めていく。我に返るとはこういうことかと変に納得しながら席を立つ。
「ご、ごめんなさい急に。知り合いが好きな香水の香りに似ててつい。失礼しました」
 逃げられなかった。彼に腕を掴まれてしまったのだ。
「あ、あの。離して」
「待てって。思い出したんだよ」
 不審や怪訝さにまみれていた表情から一変して、笑みを浮かべている。
「ち、ちょっと!?」
 抵抗できない力で引っ張られるまま講堂をあとにして、人気のない空き教室に連れて行かれる。
「あんた、俺のダチと付き合ってた奴だろ」
 こういうとき、うまい言い訳がすぐ出てくる人を本当に尊敬する。意味もなく顔をそらすしかできない。
「もう使わないからって余ったのをもらったんだけど、確かあんた、この香り好きだったんだっけ? あいつが言ってたよ」
 好きだった。
 いつも優しくて、自分の世界を広げてくれた彼にふさわしい香りだったから。
 好きな彼が纏っていたからこそ、簡単に忘れられないほどに、好きだった。
 彼の友達はようやく腕を解放してくれたが、出入口を塞ぐように扉に寄りかかった。どこか気持ち悪い笑みは変わらず、刻まれている。
「男と付き合うことになったって言われたときはびっくりしたなー。でも結局、うまくいかなかったみたいだけど」
「……やめて」
 あの日の記憶がじんわりと頭を支配して、固く目を閉じる。
 一時でも付き合えただけ幸せだった、期間限定でも神様が与えてくれた奇跡だった、そんなことを懸命に自らに刷り込む日々だった。やっと、やっと少し前を向けるようになってきたのに、こうやってまた、無駄にするのか。
「いいんだ、彼は男を好きになったのは初めてだって言ってたし、やっぱり女の人のほうが好きだってなってもおかしくないし。僕みたいに男しか好きになれないってやっぱり珍しいし」
 いくら世の中が変化していっても人の嗜好は関係ない。だから彼を恨む気なんてさらさらないし、早く過去として受け入れないといけない。
「まあ、そうだな」
 声が近くで聞こえて顔を上げると、彼の友達に見下ろされていた。あの人より背が高いから? 変な威圧感がある。
「でも、俺は正直興味あるんだよね」
「きょう、み?」
「そ。男を好きになるってどういう感じなのかなって」
 心の隅にあった嫌な予感が成長していく。
「ねえ、俺に試させてくんない? 同性の恋人がどういうのか」
「な、にをばかなこと」
「いいじゃん。あんたも俺を利用すれば? 次の男が見つかるまでのつなぎでも構わないよ」
「つ、つなぎって! そういういい加減な理由なんて無理だよ!」
「無理かどうかはやってみないとわからないって」
 キスは突然だった。振り払う暇もなく離れて、目の前の唇は憎たらしく満足そうに持ち上がる。
「少なくとも、俺は今全然気持ち悪くなかったぜ。あんたが可愛い顔してるからかもしれねえけど」
 無意識に、頬をはたいていた。
「信じられない……きみ、絶対遊び人だろ」
「へえ、意外に気の強いとこもあんだ」
 彼の友達は確かに驚いていたが、効果がまったくないのは明らかだった。
「遊び人だなんてとんでもない。俺って意外と一途よ? まだそういう相手が見つからないってだけ」
「物は言い様って言葉知ってる?」
「恋愛は一度きりってわけでもないだろ」
 だめだ、口ではとても勝てそうにない。
 どうしてあのとき、声なんてかけてしまったんだ。死ぬほど後悔しても遅いのに!
「……彼の香水、僕に渡してよ。君に持っててもらいたくない」
 これ以上、彼との思い出を穢されたくない。
「いやだね」
「君が持ってたって意味ないだろ」
「意味はあるさ。俺が新しい恋人になるかもしれないだろ?」
「ない、絶対ない!」
 視界が歪んできた。こんなに憎たらしく、悔しい思いをしたのは初めてだ。こんなやつと友達な彼にもなぜか腹立たしくなってくる。
「いいじゃんいいじゃん。あんた結構表情豊かなんだな。ずっと大人しい性格なんだと思ってたよ」
 元々目立たない性格だと言いたかったけれど、もうどうでもいい。今はとにかくこいつをどうにかして、香水も手に入れないといけない。
「わかった。じゃああんたは俺から香水を奪うことを目標に、俺と付き合ってみなよ」
 間抜けな問い返しをしてしまった。
「ていうか、そうでもしないとお試し付き合いしてもらえなさそうだし。どう?」
 好きでもない人と、たとえお試しでも恋人同士になるなんて嫌だ、ほんとうに嫌だけれど……彼との大事な思い出を、守るためなら。
 まるで悪魔に魂を売るような気持ちで、両手を固く、固く握りしめながらも、しっかり彼の友達を睨み、頷いた。
「よし。契約成立だな。……覚悟しとけよ?」


#ワンライ

20250420005604-noveladmin.png

(画像省略)創作BL版深夜の60分一本勝負  のお題に挑戦しました。お…

ショートショート・BL

#ワンライ

ショートショート・BL

急に伸びた手は、誰も躱せない


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創作BL版深夜の60分一本勝負  のお題に挑戦しました。お題は「終電」「泊まってく?」です。

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「あー終電逃しちったわー金曜だからってうっかり飲み過ぎたわー」
「あーそうですか。仕方ないですけどタクシーですね」
「って違うだろ! 泊まっていきませんかだろそこは」
「……わかってて言わなかったんですよ!」
「いいじゃん、お前と飲むの楽しいんだよほんと」
 後輩は盛大にため息をつきながらも、俺の提案をのんでくれた。
 出会ってから一年経つが、彼ほど気の合うヤツはいない。今はこんな態度だが、最初のころはそれはもう可愛くて仕方なかったものだ。
「どうぞ、散らかってますけど」
「今さらだろー。っていうか言うほど汚くないぞ、俺んちのほうがだらしないわ」
 お邪魔しまーす、と一応の断りを入れる。というのも、彼の部屋が二次会会場になるのも珍しくはなかったりする。
 本当にダメだと念押しされたら素直に引くぐらいの常識だってちゃんとあるし、彼も遠慮せずに言ってくる。それくらいの仲なのだ。
 でも、なんだろう。今日は少し、様子が違うような……。
 後輩がテレビをつけると、深夜帯にふさわしい内容のバラエティがやっていた。少しうるさいなぁと思ったら彼も同じ気持ちだったのだろう、すぐに消した。
「ビールしかないですけど、いいですよね?」
 頷くと、500ミリリットル缶を一本だけ持って、向かいに腰掛けた。
「あれ、お前は飲まないの?」
「僕は充分飲みましたんで」
 やっぱりなんか違う。はっきり断らなかったからと、無理強いさせてしまったか?
 いつもなら深い話を楽しんだりするのだが、今日は早めに帰ったほうがよさそうだ。
「……あのさ。俺の顔になんかついてる?」
「別についてないですよ」
「そ、そう? なんかこう、見つめられてるなぁって」
 こんなに読めない後輩の姿は初めてだった。なぜか怒られているような気にさえなってくる。いや、俺は俺で押しかけてしまったという負い目もあるが、それを抜きにしても変な気持ち悪さを感じる。

「いえ? ただ、ちゃんと考えてくれてるのかなって。僕があなたに告白したこと」

 酔いが一気に醒めるなんて、本当にあるんだ。
 缶、持ち上げる寸前でよかった。絶対に落としていた。
「ああ、やっぱり冗談だって思ってたんですね。センパイ」
 嫌みを存分に含んだ笑みを向けられる。こいつ、こんな顔もするんだ。
「だって全然態度変わんないんですもん。こっちは勇気出して告白したんですよ?」
 ……忘れていた。頭の隅に追いやって、彼の態度が変わらなかったからそれに全力で甘えて、いつしか、なかったことにしていた。
「っで、も」
「こっちの身にもなれ、ってやつですか? わかってます、あのときだって申し訳ないと思ってました。でも、無理だったんです。我慢できなかったんです」
 眉間に皺を寄せて、声を絞り出す。
 わかる、俺だって恋をまったく知らない人間じゃない。でも、でもなんで俺なんだ。確かに彼は好きだ、でもそういう目で見たことはない。あくまで可愛い後輩なんだ。
「だ、だって男だし年上だし! お前だって信じられないって思うだろ絶対!」
「好きになったのがあなただった、それだけです」
 泣くんじゃないかと心配になるほど、瞳が歪んでいる。正直、気にかける余裕はない。だってどうしようもない、どうにもできない。
「……だから、家にあげたくなかったんだ」
 そうつぶやいた後輩は俯いたまま、いきなりテーブルを乗り越えてきた。
「お、おいビールが」
「そんなの、どうでもいいです」
 いつもなら絶対ないのに、鼻を刺激するアルコールのにおいにくらくらする。
「いいですよ、泊まっていっても」
 強制的に視線を固定されて、どうにもできない。
「先輩を好きだって言ってる男の家に泊まるってことは、そのつもりだって受け取りますから」
 俺は全然そのつもりじゃない!
 喉の奥ではそう叫びたがっているのに、声が出ない。
 告白してきたとき以上の迫力を間近で浴びて、完全に押されていた。

「先輩はこれくらい荒療治しないと、わかってもらえないみたいですしね」

 無理やり重ねてきた唇は、震えていた。
 拒めなかったのはきっと、そのせいだ。


#ワンライ

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「さく…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】だれのためにもならないものがたり


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「さく」です。

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 今は起承転結で言うならどのあたりなのか、誰か教えてほしい。
 長いこと承か転のあたりを彷徨っている気がするのは転調の兆しがまったく、見えないから。
 ——最悪な出来を更新し続けているこの作品の始まりは一体、どこだったのか。
 唯一はっきりと自覚しているのは、今すぐにでも逃げたいという気持ちだけ。……できないくせに。
 ああ、誰も彼もがまぶしく見える。容赦なく押しつぶしてくる暗闇の重さを知らないように見える。
 どこまで時を戻せば無邪気なままで……たとえ平凡で退屈な作品だとしても、描き続けていられただろう。

 力強く掬い上げてくれる存在の登場を希いながら、今日も、力なくペンを握るのだ。

#[300字SS]

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創作BL版深夜の60分一本勝負  のお題に挑戦しました。お題は「魅力」…

ショートショート・BL

#ワンライ

ショートショート・BL

お互いがお互いに


創作BL版深夜の60分一本勝負  のお題に挑戦しました。お題は「魅力」です。

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 あいつ、絶対気づいてないんだろうなぁ。だから能天気な顔してあっちにもこっちにもふらふらしやがるんだ。
「あれ、眉間にシワ寄せてどったの? おれがいない間になにかあった?」
 能天気が隣に腰掛け、眉尻を下げて能天気に問いかけてくる。
「別に。誰に絡まれたとかそういうんじゃねえよ」
「そう? ならよかったけど」
 どうも人受けの良くない人相をしているようで、特に中高生時代は陰であれこれ言われたり、酔っ払ったお行儀のよくない輩に絡まれたりした。彼と出会ってから不思議と頻度はだいぶ減ったが、ゼロまではなかなかいかない。俺は彼の能天気さのおかげだと思っている。……口に出したことはないけど。
 でも、こいつがあまりに自覚ないから、ちょっとからかってやろうかな。
「お前の無自覚さに呆れてたんだよ」
「え、なになに? 無自覚ってなに?」
 そこそこ丸い目をさらに丸くする。こういうとこも魅力……じゃなくて。
「べつに。人気者は大変ですねえってだけ」
 二、三度瞬きを繰り返して、ようやく合点がいったらしい。丸すぎる目がわざとらしく細められた。
「寂しかった?」
「そんなんじゃねーよ」
 デート中とはいえ、友達に遭遇したらそりゃあ挨拶もすれば軽い会話もするだろう。加えて「まあ人気者なんだろうなあ」というなんとなくの予想も当たりとわかるくらい、みんなまぶしい笑顔だった。
「こいつは俺のだ」と嫉妬するより、みっともない臆病さが頭をもたげている。仮に俺を知り合いだと紹介したら、絶対ふさわしくないと笑われるに違いない。
 それくらい、彼は無自覚に、周りを明るく照らしまくっているんだ。
 ……あの友達のなかに、彼に惹かれている奴がいても、おかしくないんだ。
「確かに寂しそうっていうより、無駄にいらないこと考えてる感じだね」
 反論しようとした口は、両方の頬を若干強めに包まれて失敗に終わった。
「はっきり言うよ。それは単なる考えすぎだから全部忘れていいよ」
 ため息をついて両手を軽く払う。
「話も聞かないでよく言うぜ」
「聞かなくたって大体わかるよ。おれたち何年の付き合いだと思ってんの」
「せいぜい三年くらいだろ」
「それでも君のことはだいぶ理解してるよ。だからこそ考えすぎだって言ってるの。君はネガティブなところがあるから」
 ……見抜かれている。嬉しいような、悔しいような。
 彼は再び、頬に手を添えてきた。今度は労るような、優しい手つき。
「何回だって言うけど、おれは君が一番好きだよ」
 俺を見つめるふたつの瞳は純粋な想いが伝わってくるほどにきれいで、つい手を伸ばして触れてみたくなる。けれど実行はしない。手に入れられるけれど、そのまま眺めていたいから。
「君に一番ふさわしいのはおれだし、おれに一番ふさわしいのは君だけ。これからも変わらない」
「すごい自信だな」
 声を詰まらせて、なんとか返せたのがこれだった。ああもう、さっきからカッコ悪いところばかり見せている。
 目の前の笑顔がいっそう深まった。こいつ、絶対いろいろ見抜いてやがる。
「君だってそう思ってくれてるって、わかってるからね」

 人目につかないところとはいえ、誰が通るともわからない場所でなにをやってるんだ俺たちは。
 そう呆れても、彼の与えてくれるぬくもりにもはや抗えなかった。
 ――くそ、やっぱりこいつの人たらしぶりは危険だ。
 こうして、ずっと離れたくないという気持ちにさせられてしまうのだから。

#ワンライ

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「指」…

ショートショート・男女

#[300字SS]

ショートショート・男女

【300字SS】きっと、ぜんぶ


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「指」です。

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 手のひらを抜けて、肘のほうまで。
 陳腐な言い方だけど、まるで電流だった。
 触れられているのは数本の指先、ほんのわずかな箇所なのに。
 素直に表に出すのは悔しくて、唇を引き結ぶ。
 隣から、からかいを含んだような小さな笑い声が聞こえてきた。……お見通しってこと?
 ――声が漏れそうになった。
 触り方、かわった。明らかな、誘いに乗りたくなるような、身体の芯を撫でるような――
 この人になにもかも刷り込まれたことを思い出す。私という人間は、この人好みにつくりかえられてしまっている。
 ああ、もう。
「いつまで痩せ我慢が通用するかな?」
 指の間へするりと移動した熱に浮かれ始めているのを、もはや止められそうにはない。

#[300字SS]

2024年4月 この範囲を1話→最新話 の順番で読む この範囲をファイルに出力する

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「憧れ…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】過去には進めない


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「憧れ」です。

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「あんたのそれは憧れじゃないよ。完全に恋だね」
 ふざけたことを言わないでほしい。あの人は自分の目標であり、超えなきゃいけない壁であり、でも肩を並べたい相手でもあり……とにかく単純ではない。
「あの人がいたらはっきり機嫌がよくなるし、誰かと話してるとすぐ割って入ってくるのに?」
 そりゃあ面白くないって思うときもあるけれど、友達同士でもそういう感情があるんだ、別に変じゃない。
「ふうん……まあ、後悔しないといいけど。あの人も同じような態度だってことは言っとくよ」

 後悔なんて、おかしなことを言わないでほしい。
 けれど今、その時の判断がぐらぐら揺れている。
「実は……結婚、するんだ」
 喉が震えて、何も出なかった。

#[300字SS]

2024年3月 この範囲を1話→最新話 の順番で読む この範囲をファイルに出力する

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「酔う…

ショートショート・BL

#[300字SS]

ショートショート・BL

【300字SS】これは不敬な感情だから


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「酔う」です。
桜の木の精と恋人を亡くした社会人のお話。
『現実を忘れられるなら、今は』の話が元ネタです。

-------

「桜、結構散ってるけど、まだきれいだね」
 桜を見上げる彼の瞳は、柔らかい光を放っている。まるで私自身が見つめられているようで、頬が熱い。
「今年も立派に咲きましたから。貴方のおかげです」
「褒めすぎ。俺はなにもしてないよ」
 彼の頬もほのかに色づいていて、さらに温度が上がった気がした。
 ふと、双眸が細められた。無意識か、空に手を伸ばして散る花びらを掴むような動きを繰り返す。
 ——そういえば、大切だったあの方とそんな遊びもしていましたね。
 無駄な熱が一気に抜けた。人間風に表現するなら「酔いが覚めた」だろうか。
「ごめん、俺、なにやってんだろ」
 我に返った彼は不器用な笑みを向ける。
 私は、首を振るしかできなかった。

#[300字SS]

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 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。 想像以上に堪えている自分がいて、…

短編・男女

短編・男女

綺麗な月に魅せられた私は


 バイトで、珍しくミスをして怒られてしまった。
 想像以上に堪えている自分がいて、最寄り駅まで一直線に向かっていたはずの足は公園に寄り道していた。通り道にあるとはいえ、立ち寄ろうという意識がなければ来ない場所だ。
 そもそも、夜はあまり好きではない。小学生の時に、コンビニに出かけたまま帰ってこない父親を毎夜、自宅の前で待っていた過去があるせいでいい印象がない。
 そう、今日のようにさんさんと輝く満月の日もあった。
 じわりと蘇りそうな重い感情を振り払うように、一度目を閉じる。この公園は海沿いにあるから、特に夜景が素晴らしかったはずだ。綺麗な景色は昼夜問わず嫌いじゃない。それを眺めていればきっと心も洗われるに違いない。
 公園内で一番広そうな大通りを足早に抜けて、海に面した散歩道へ向かう。潮の香りが一段と強くなってきた。
 やがて視界が開けた瞬間、思わず足が止まる。
「うわ……これは想像以上だな……」
 柵の向こうで様々な人工光が並んでいる。水面に帯状となってぼんやり映り込んでいるものもあり、また違って見えて面白い。今日は風があるから若干ゆらゆらしているが、もしなかったら鏡のようになるのだろうか。
「月もあったらもっとよさそう」
 ネットで海と月がセットになった風景写真に遭遇するたび、あんな神秘的な瞬間に出会いたいといつも思う。
 少し歩いてみることにした。海風がとても心地いい。ようやく猛暑続きの日々から脱したかと思えば、次の季節がすぐそこまでやってきている。
「あ、こっち行き止まりか……っ!?」
 方向転換をした時だった。道に沿う形で一つずつ設置されているベンチに、何かがいた。
 ベンチを囲むように緑が植えられているので少しわかりにくかったが、人影だったと思う。
(い、いや、人がいてもおかしくないよね……)
 絶対に怪談の類いじゃないと言い聞かせて、正体を確かめるべく改めて向き直る。
 ――確かに、人だった。人、だと思う。
 曖昧になってしまったのは、一言で言うなら「綺麗」だったから。
 視界の先のその人は、肩まで伸びた、癖の強い茶髪を片耳にかけながら首を傾げた。スウェットのような黒の上着にジーンズというシンプルすぎる服装なのに、端正な顔の効果でおしゃれに見える。
「あの、何か用ですか?」
 改めて問いかけられて、我に返る。慌てて頭を下げた。
「す、すみません! お兄さんがすごく綺麗で、見とれちゃったんです」
 言い終わってから、頭を上げたくないくらい恥ずかしさがこみ上げた。何を馬鹿正直に告白しているんだ!
 いっそ笑ってくれと願った瞬間、小さく吹き出す声が聞こえた。
「あ、ありがとう。あんなにはっきり言われたら、そう返すしかないっていうか」
 願いが叶ってありがたいが、落ち着く時間が欲しい。
 よほどツボに入ったのか、口元に拳を当てながらくつくつと笑い続けている。さっきはどこか人間味がない印象だったけれど、今は違う。
「思いっきり笑っちゃってごめんね。……久しぶりに、こんなに笑ったよ」
 そう言いながら何かを堪えるように、双眸を少し細める。
「あの、もしかしてお兄さんも嫌なことがあったんですか?」
 気になると思った時には、表に出ていた。怒られた自分の姿と重なって見えて、同情心が生まれてしまった。
 唇を一文字に近い形に戻した彼は、薄めの眉を困ったように寄せる。
「それって、ナンパのつもり?」
「ち、違います! ほんとにそう思ったんです。私もそうだから」
 下がっている目尻を少しだけ持ち上げた彼に、バイト先でいつもは絶対しないミスをしてしまったから、綺麗な景色を見て癒やされたかったと続ける。
「そうだなぁ……癒やされたかった、ってのは合ってるかな」
 また、堪えるような顔つきになる。
「それでも、君すごいね。鋭いねって言われない?」
「思ったこと口に出しすぎ、だとは」
 吹き出したということは、出会ってすぐのお兄さんにも充分理解されたようだ。……優しい人でよかった。
「仕事柄いろんな人と会うけど、君みたいな人は初めて会ったかも。なんか、元気出た」
 改めて向けられた笑顔は立派な証明になってはいたが、恐れ多すぎる。
「ほ、褒めすぎでは……むしろ邪魔しちゃってましたし」
「ううん、本当に癒やされたよ。ありがとう」
 素直にお礼を、しかもイケメンから告げられるなんてそうそうない経験だから、無駄に慌ててしまう。
「というか、僕も君の邪魔をしちゃってたんじゃない?」
「いえ、私もいつの間にかすっきりしてました。綺麗なお兄さんと話ができたおかげです」
「またそんなことを……」
 冗談抜きで、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。この人との出会いは、そんな願いを掬い上げてくれた結果だったのだと思えた。
 特別な出会い。運命。そんな言葉が頭をよぎる。
 ふと、ショルダーバッグに入れているスマホが震えた。スリープを解除して、思わず声を上げる。
「やば、もうこんな時間!」
 相当話し込んでいたらしい。明日は一限から授業があるから、あまり遅くなるときつい。
「すみません、私帰ります。いろいろ、ありがとうございました」
 一抹の寂しさを覚えながらも踵を返す。
 ――本当に、このまま赤の他人同士に戻ってもいいの?
「待って。君さえよかったら、また話したいな。……ダメかな?」
 足が止まった。止めざるを得なかった。
 振り返った先のお兄さんは、不安そうにこちらを見つめていた。
「ダメじゃ、ないです」
 湧き上がる歓喜を必死に堪える。声が震えそうだった。
「ありがとう。……本当に、君に出会えてよかった」
 お礼を言いたいのは自分こそだ。
 嫌いだった夜が、この出会いのおかげで少し好きになれたのだから。

  + + + +

 お兄さん――(かおる)と話す日は週に一度あの公園で、夜の数時間だけと決まった。彼の仕事の都合が理由だったが、社会人なら仕方ないし、自分もバイトのある時しかこの公園は通らないからむしろありがたかった。
 週に一度の楽しみができた影響か、当日は無意識に浮かれているらしく、友人にやたら怪しまれてしまった。
 事情は話していない。薫と、他言無用でお願いしたいという約束を交わしていた。
『二人だけの秘密。って言うと特別感があって面白くない? 子どもみたいだけどね』
 そう言って悪戯っぽく笑う薫に乗った時点で仲間なのだ。
 話す内容は本当に他愛ない。大学やバイト先で何があったとか、自分自身について話すこともある。先週は好きな食べ物が「そば」だと告げたら薫も同じだったことが判明した。
 薫は自身についてあまり話さない。だからひとつ知るたび、宝物を見つけたような嬉しさが募る。
 もっと知りたいと願うのは、やっぱりわがままなのだろうか。


「薫さん!」
 ベンチに腰掛けていた薫が顔を上げた。いつもと違う雰囲気に見えた理由はすぐわかった。
「今日は結んでるんですね」
「ちょっと暑いからね。絢奈(あやな)ちゃんと一緒だ」
「そう、ですね」
 隣に座りながら、つい後頭部に手をやってしまった。こういう一言には照れるばかりで、未だにまともに返せない。
 無駄に高鳴る心臓を落ち着かせたくて、鞄からペットボトルを取り出す。中身はとっくにぬるくなっていたが、充分仕事をしてくれた。
「あ、その紅茶。今飲んでる人多いよね」
「そうなんですか? 甘くないのが好きなんで買ってみたってだけなんですけど」
「CMで流れてるからかな。ネットでも写真載せてる人よく見るよ」
 確かに、パッケージは女性に受けそうなお洒落と可愛さが融合したようなデザインをしている。そういえば自分もそれに惹かれて手に取っていた。
「薫さん、流行りものに詳しいですよね。私ほんと疎くて……テレビも家にないから、友達からいろいろ教えてもらうんです」
 前は鞄につけている、友達からもらったキーリングにも反応していた。デフォルメされた動物がぶら下がる格好でついているチャームが可愛いと、特に動物好きに売れているらしい。
「今日もなんだっけ、流行りかわかんないですけどドラマにハマってるんだって言ってました。薫さんはドラマとかよく観ます?」
「……ドラマ?」
 返ってきた声が、心なしか硬い。
「いや、僕はあんまり観ないかなぁ」
 思わず隣を見やるもいつも通りだった。気のせいだったのか?
「友達、どんなドラマにハマってるって?」
「え、ええと。確か、『まぶしい月に誘われた僕は』ってタイトルでした。まだ数話しか観てないけど面白いって言ってました。特に誰かがよかったって」
 何しろ、昼休みぐらいの時間を使って情熱たっぷりに語ってくれるから、細かいところまで覚えきれないのだ。
「……そう、なんだ」
 歯切れの悪い声だった。横顔でも、どこか強ばっているのがわかる。
「す、すみません。もしかして嫌いな作品でした?」
 我に返ったように、薫はわずかに目を見開いた。こちらに慌てて向き直ると何度も首を振る。
「ごめん、何でもないよ」
 そう言われても納得できないレベルの態度だった。
「嫌いじゃないんだけど、僕はあんまり、って感じかな。それだけだよ」
 ――何でもないって態度には見えないです。何かあるんですか?
 いつもなら己の性格を恨みつつ、疑問をぶつけていただろう。実際、喉から出かかっていた。
 飲み込まざるを得なかったのは、はっきりとした拒否を感じたから。鈍い自分でもわかってしまったから。
「それぞれ、好みありますもんね。しょうがないですよ」
 とっさに作った笑顔は、まがい物だとすぐわかる代物だったと思う。
 正直、自分でも驚いている。どうしてこんなにショックを受けているんだろう。心臓が苦しいんだろう。
「……うん。絢奈ちゃん、ありがとう」
 頭にそっと重みが加わった。優しく撫でる感触に苦しみが和らいでいくようだったが、泣きそうになる。
 ありがとうの意味は、違うところにかかっている。でも、それを紐解くことは許されていない。
 出会ってからもうすぐ二ヶ月、まだ二ヶ月。与えられた時間は、長くても最終の電車に間に合うまでの数時間。
 物足りないと、もっと仲良くなりたいと、欲が生まれてしまう。
「薫、さん」
 離れていく手を、勢いのまま掴んだ。驚く薫を見つめ続けることはできず、俯きながら懸命に唇を動かした。
「私、もっと薫さんと会いたいです。話、したいです」
「……ありがとう。でも、ごめんね」
 本当に申し訳なく思っている声音だった。
 だからこそ、首を左右に振るしかなかった。

  + + + +

 先週からいつもの場所に向かう今までずっと、強まる不安と戦ってきた。友達やバイト先で何度心配されたかわからない。
 先週、薫はいなかった。
 終電に間に合うぎりぎりまで粘ってみても、主に女性が何人か通っただけで一切姿を見せなかった。
 仕事が忙しいだけ。社会人なのだからそういうこともあるに決まっている。
 そう言い聞かせようとしても、浮かぶのは余計な欲を出してしまった後悔ばかり。
「着いちゃった……」
 ベンチが近づいてくる。いっそ、もう会いたくない、という最悪の展開さえ迎えなければいい。会ったらいの一番に頭を下げよう。
 いた。髪は結ばれ、服装もボタン付きのシャツという異なる格好の、薫が座っている。
「あ、あの、薫さ」
「絢奈ちゃん、ごめん」
 逆に頭を下げられた。
「先週は仕事で来れなかったんだ。急に決まったからどうにもできなくて」
 顔を上げた薫は思いきり眉尻を下げていた。柔和な印象を通り越して、自信のない性格のように映る。
「だ、大丈夫ですから。そんな、気に」
 しないで、と続けられない。一度、緩く唇を噛む。
「……仕事で、安心しました。もう、会えなくなるかもって思ってたから」
「どういうこと?」
 本気で訝しんでいる。薫の中では大した問題ではなかったとわかって、猛烈に恥ずかしくなる。
 どうやってかわそうか必死に考えていると、背後に人の気配を感じた。そちらに気を取られた瞬間、身体がぐらりと傾いだ。
 目の前が黒で染まる。背中にぬくもりを感じて、薫に抱きしめられているのだと初めて知った。
「な、なんで」
「ごめん、少し大人しくしてて」
 息の当たる箇所が熱い。たまらず、固く目を閉じた。背後で悲鳴みたいなものが聞こえたがそれどころではない。
 考えてみれば、男の人から抱きしめられた経験なんてない。全身が汗ばんできた気がするし、変にふわふわもする。五感すべてが薫に集中しているようだ。
(緊張しすぎて……もう、意味わかんない……)
 今すぐ遠くに逃げて、いろんなところを落ち着けてから戻りたい。「大丈夫?」なんて突っ込まれたらどうしよう。
「……もう、行ったかな。ごめんね、いきなり」
 とにかく早く展開が変わって欲しい。必死の願いがようやく届いた。
「い、いえ」
 超密着の時間は終わりを迎えたが、身体の調子は全く戻らない。うかつに顔を上げられなくて、どう対処すればいいのか途方にくれる。
「絢奈ちゃん? 大丈夫?」
 最悪の展開を迎えてしまった。どうしよう、どう言い訳しよう。
「っひ……!」
 頭の中がパニックになっているせいで、肩に触れられた瞬間、短い悲鳴を上げてしまった。
 しかも、後ずさるという最悪の、おまけつき。
「ご、ごめんなさ……」
 謝りたいのに、うまく言葉が紡げない。ぼんやり浮かび上がる薫の顔が若干傷ついているように見えて、今すぐ頭を下げたいのに、できない。
「いや、謝るのは僕だよ。説明もなしにあんなことしちゃって、本当にごめん。怖かったよね」
 違うのに、ただびっくりしただけで本当に嫌な気持ちはなかったのに。むしろ変に緊張するばかりで、熱が出たみたいで。
 無意識に首を振っていた。声の出し方を忘れてしまったように、苦しい。
「絢奈、ちゃん?」
 間近でそっと名前を呼ばれて、反射的に顔を上げた。
 街灯に淡く照らされた顔は、今まで一番整っていた。不思議と、きらきら輝いているようにも見える。
 恥ずかしさは消えないのに、魅入られたようにもっと見つめていたいと願う自分が、いつの間にか頭の片隅に存在していた。
 薫の双眸がわずかに細まった。ゆっくり持ち上がった腕がこちらに伸ばされるのを、今度は黙って見守る。
 頭を一度、撫でられた。そのまま肩に、ぬくもりが移動する。
 心臓が激しく高鳴り始めた。さっき逃げたことが信じられないほど、嬉しさを覚えている。
 ――もしかして、これって。
 久しく忘れていた。中学生の頃先輩に一度抱いたきり、隅に追いやられていた感情。
 こんな、噴火するように急に湧き上がってくるなんて。
 周りの時間が一気に流れ込んできた。黙って見つめ合えていたのが不思議でならない。
「あ、あの、私、今日は帰ります!」
 それだけを告げるのが精一杯だった。
 これ以上、想い人となってしまった薫の前に立っていられなかった。

 それがきっかけなのか、事実は本人にしかわからない。
 薫は、公園に一切姿を見せなくなった。

  * * * *

 目的のアカウントに辿り着いて、名前を何度も確認する。
 友達に教えてもらったように操作して、メッセージ送信画面を出した。

 ――最近、ファンになりました。これからも頑張ってください。

 自分のアカウント名は「絢奈」。名前の後ろには、チャームについているウサギの絵文字をつけた。
 オープンな場所でのメッセージだから、ありきたりな内容しか送れなかった。
 それでもどうか気づいて欲しい。何でもいいから、反応をして欲しい。


 薫に繋がる手がかりを得たのは、本当に偶然だった。
 バイト先で雑誌の整理をしている時、想い人に瓜二つの俳優が表紙を飾っていた。髪型は異なっていたが、伸びたら多分、ほぼ同じになる。
 思わず中身をめくっていた。
 ――皐月(さつき)(かおる)
 インタビュー記事の終わりに、名前があった。
 唯一知る「薫」だけが、一致していた。
 顔がたまたま似ているだけ。下の名前が一致しているだけ。本名かもわからない。それでも無視できないほどに、第六感が訴えていた。
 帰宅して、「皐月薫」を改めて検索してみたら信じられない量の情報が手に入った。
 歳は二十八であること。大学生の頃から俳優を続けていて、二年前に出演した『まぶしい月に誘われた僕は』の役が当たりとなり、今や主役も脇もこなせる名優になったこと。
 スマホを持つ手が震えた。残ったピースが急に嵌まり出したようだった。

 ――いっそ、このまま自然消滅した方が、お互いのためにいいのかもしれない。ましてや、恋心なんて無駄だ。再会できたとして、今までみたいに誰にも見つからないとは限らない。見つかったら迷惑しかかけない。

 そう思い込もうとしたのに、できなかった。我慢すればするほど募って、会いたくて、たまらなかった。
 自分にとって、皐月薫は「お兄さん」以外考えられなかったのだ。


 アラームの音にぼんやりと目を開ける。状況を把握できなくて白い壁を見つめていたが、跳ね起きた。メッセージの進展を待つ間に寝落ちてしまったらしい。
「何もなし、か」
 メッセージは最後の手段だった。約束の夜に関係なく、バイトのある日は必ず公園に寄った。それでも会えなくて、友達に心配されるほどいつもの自分がわからなくなって、そんな時に出会った雑誌から行き着いた希望だった。
 これが絶たれたら、打つ手はなくなる。父のように、本当に手の届かない人になってしまう。どうして大切な人はみんな、隣からいなくなってしまうんだろう。
 いつの間にか小さくしゃくり上げていた。苦しさのあまり、薫と過ごした二ヶ月近い日々が赤一色に染まろうとしている。
「顔、洗ってこよ……」
 仕事があるから連絡できないのだと無理やり言い聞かせ続けるしかできない。今日が休日で本当によかった。
 その後も横になりながらスマホを眺め続け、いつの間にかまた眠りに落ちていた。再度目が覚めた時には、昼もだいぶ過ぎていた。
 重いままの気分をどうにかしたくて、水温の低いシャワーを浴びる。望む未来になるとは限らない。理屈はわかっていても、今は今しか考えられない。
「……え、通知、光ってる」
 服を着るのもそこそこに、スマホに飛びつく。起きた時は何もなかった。
 画面をつけて――思わず、取り落としてしまう。
 来た。待ち焦がれたメッセージが、届いていた。
 震える指で通知欄をタップし、起動したアプリには、個別と思われるメッセージが数通に渡って綴られていた。
 歪みそうになる視界を手の甲で何度もクリアにしながら、幾度となく目を走らせる。
 すぐに、身支度を始めた。

『急に来なくなってごめん。僕があの公園にいるっていう情報が広まり出して、行きにくくなっちゃったんだ』
『……本当は、迷ってた。正直に話すと、君が僕のことを好きだと思ってくれてること、気づいてた。素直に嬉しかったんだ。でも、駄目だとも思ってた』
『君はまだ若いし、歳だって結構離れてる。そうじゃなくてもこんな人間だから君に迷惑だってかかるかもしれない。何も気にせずずっと話ができる人を失いたくなかった。……怖かったんだ』
『でも、言い訳しても駄目だね。君に会いたかった。また、他愛ない話がしたかった』
『本当に身勝手だし、怒られて当然だけど……許してくれるなら、また会ってください』

 いろいろ伝えたかった。それでも長文を打つのはもどかしくて、移動中に返せたのはたったのふたつ。
 残りは、直接伝えればいい。

『私にとって薫さんは、綺麗なお兄さんのままです』
『私も、会いたい』

 電車の扉が開いた瞬間、飛び降りる。改札を出ると、薄い長袖でも少しひやりとする風が全身を撫でた。太陽の見えなくなる時間が、ずいぶん早まっている。
 公園に向かって走った。目的地はいつもの場所ではなく、駐車場。
 十台は留められそうなスペースの一番端に、その車はあった。書いてあった通り、シルバーで染まっている。
 合図は、助手席側のガラスを五回ノック。
 解錠の音が聞こえた。ドアノブを掴み引っ張るが、うまく力が入らない。もう片手も添えて、ようやく開いた。

「二度も僕の願いを叶えてくれて、本当にありがとう」

 泣き笑いの顔で出迎えてくれた「お兄さん」と同じ表情を、きっと自分もしていたに違いない。

(対象画像がありません)

——諦めない。気持ちを受け入れてもらえるまで。*平泉春奈×エブリスタ 短編小説コ…

ショートショート・男女

#お題もの

ショートショート・男女

ふたつの直線、交わる日はいずこ


——諦めない。気持ちを受け入れてもらえるまで。
*平泉春奈×エブリスタ 短編小説コンテスト 応募作品です。
エブリスタで読む場合はこちらから

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「すっかり遅くなっちゃったわね」
 依頼を受けた時は、まさか都内を飛び出すことになろうとは思いもしなかった。思わぬ遠出になってしまった。
 依頼主の関係者に話を聞く必要が出たまでは仕方ないものの、事情で正体を明かせない、理由も明かせないのはさすがに参った。
「でも、おかげで完璧な報告ができるんじゃないですか?」
 私の事務所でただひとりの所員である彼は弱々しくも明るく笑った。
「そうね。これなら謝礼もたんまりもらえることでしょう」
「さすが、たくましいリーダーですよ」
「でしょ?」
 上司と部下の垣根を越えたやり取りも、すっかり板についた。とても心地のいい、まさに理想的な状態だとつくづく実感して、幸せにさえ感じる。
 腕時計を確認すると、もうすぐ日没を迎えそうな時間だった。この道をまっすぐ進めばバス停に辿り着く。便はまだ残っているはずだった。
 背伸びついでに横を見ると、湖面に橋がかかっているように、オレンジ色の光が山の方へと伸びていた。今の疲労感に相応しい、優しく穏やかな景色ができあがっている。仕事でなければカメラ片手にゆっくり散歩を楽しんでいただろう。
「秋は紅葉とかすごそうよね、ここ」
 少し見上げればまだ瑞々しい葉をつけている木々が出迎えてくれる。先の季節を想像したら、ますますプライベートで訪れたくなった。
「実際、春と秋はそれなりに混むところらしいですよ。デートスポットとして密かな人気があるって、ネットの記事に書いてあったかな」
「へえ。じゃあ、さっきカップルの振りをしたのは間違いじゃなかったってことね」
 思い出してつい笑いそうになる。彼が妙に慌てふためいていたからだ。依頼人からたまに告白されることもあるらしいのに、意外と初なのかそもそも恥ずかしがり屋なのか。
「デートはこういうところでしたい派?」
「……僕は、あんまりこだわりはないですよ。好きな人とだったらどこでも楽しいと思うし」
「そうなの? ああ、でもあなたらしいね。好きな子が聞いたらすごく喜ぶんじゃない?」
 手を繋いでにこにこ散歩を楽しむ姿が頭に浮かぶ。きっと微笑ましい光景に違いない。
「所長は、どうなんですか?」
 声のトーンが変わった気がして、思わず足を止めた。
 少しずつ弱まる光に照らされた彼の表情が、変に真剣に見える。たいした話題でもないのに。
「私は、そうね。どっちかっていうとこういう静かなところとか、自然が多いところがいいかな。のんびりしたいから」
「のんびり、ですか。所長なら酒とつまみ、絶対持って行きそうな気がしますけど」
「あ、言うじゃない。確かにお酒は大好きだけど、飲み屋とかで思いっきり楽しみたいタイプだからね私」
「ええ、本当ですか?」
「本当よ! 何回も一緒に飲みに行ったことあるでしょ?」
 ……普通だ。
 さっきの違和感が嘘だったように、元通りの空気が流れている。
 単なる勘違いだったのか?
「じゃあ、それを証明するためにも今度出かけませんか?」
 一歩、彼が距離を詰めた。光が背中に隠れて、表情が見えにくくなる。
「何、デートでもしてくれるの?」
 再び変な緊張感を覚えて、わざとおどけてみせた。
 何が正解なのか、もはやわからない。こんな彼は知らない。
「……所長がそれでいいなら、僕、本気で誘いますよ」
 ――自分の身体が、どこかに連れて行かれたかと思った。
 視界が白く染まる。
 右目が少し眩しい。
 私以外の熱が、私に触れている。
「……ちょ、ちょっと?」
 ドラマや映画を観ていて、「どうしてすぐ行動できないの?」と登場人物に対してぼやくことが結構ある。
 実際、できるわけがなかった。
 体験し慣れてないほど、予測不能であればあるほど、頭が回らず、全身が縫い付けられてしまう。
 そして、意味もなく自問してしまう。
 どうして、私は彼に抱きしめられているの?
「さっき、所長が恋人の振りしてくれたとき、年甲斐もなく嬉しいって思ってました」
 伝わってくる心臓が速い。緊張しているのは明白だった。
 これが冗談なら、かなりの芸達者と言える。
「好きです。ずっと好きでした。僕が依頼人だったときから、ずっと」
「そんな、前から……」
 思わずつぶやいていた。
 働かせて欲しいとあんなに頼み込んできたのは、それが理由? 何回断っても諦めなかったのは、私を想ってくれていたから……?
 さらに引き寄せられる。身じろぎしても力は緩まない。
「気づいていたんじゃないですか? 僕の気持ち」
 半分正解で、半分外れだ。
 特別な好意をもってくれているのは、何となくわかっていた。だが、そこまでだった。深く探ろうとはしていなかった。
「所長の隣で過ごすようになって、どんどん好きになっていきました。仕事に誰よりも誇りを持っているところも、まっすぐ過ぎて時々不器用になるところも、可愛いものが好きなところも、何もかも」
 彼にはいろんな私を晒してきたと思う。
 それでも、決して否定することなく隣に立ち続けてくれていた。いつしか心地よさに変わっていったのは、嘘じゃない。
「僕は、あなたの特別になりたい。あなたの近くに、いたいです」
 嬉しい。
 素直な気持ちだった。こんなに想われて、いやなわけがない。もったいないとさえ思う。
 無意識に拳を握りしめていた。変に震えて、あまり力が入らない。
「……ありがとう」
 何とか、最初に言いたい言葉を返せた。
「私も好きよ。あなたがとても大事」
 抱きしめてもらえて、敢えてよかったかもしれない。顔を見ながらなんて、とてもできそうにないから。
 息をのむ音が聞こえたところで、緩く首を振った。
「私にとって……あなたは、最高の相棒よ。それ以上でも、それ以下でもない」
 時間が止まったようだった。
 空気が固まっている。微風さえ感じない。彼は動かない。
「他の誰も、代わりなんて務められないわ。私の隣に立てるのは、間違いなくあなただけ」
 彼が求めている答えではないとわかっている。ある意味、最上級の残酷な言葉を投げている。
「……仕事上での、相棒ですか」
 絞り出すような声がかすかに震えていた。
「光栄です。もったいないと思います。でも……仕事上、なんですね」
 納得できないと、言外に告げている。
「他に好きな人がいるんですか?」
「いないわ」
「僕みたいな男は眼中にもない?」
「そういうわけじゃない。あなたは本当に素敵な人だと思う」
「だったら!」
 縋り付かれているような心地だった。
「だったら……いいじゃ、ないですか……」
 もしかしたら、泣いているのかもしれない。私のせいで、いつも纏っている穏やかな空気を澱ませてしまった。
 それでも答えは変えられない。
 たとえ、たとえ彼がいなくなってしまったと、しても。
 ――本当に? 違う。本当はいやだ。彼に「相棒」であることを受け入れて欲しい。そして隣に立ち続けて欲しい。
 何て一方的なわがままだろうか。こんなわがまま、彼が受け入れるとは到底思えない。なのに、私は説得できる言葉を必死に探している。
「……私、本当に仕事だけね」
 彼に訊き返されるまで、声に出していたことに気づかなかった。
 夕日に照らされた彼の瞳は、陽炎のようにひどく揺らめいている。耐えきれず、少し目を伏せた。
「仕事の報告はすらすら言えるのに、駄目ね。あなたのことが、恋愛感情とか、そういうの関係なしに大事なんだってうまく言えそうにない」
「……うまく言えたとしても、意味なんてないです。僕は、あなたと恋人同士になりたい。あなたは、僕と相棒になりたい。着地点が違う」
 だから説得しても無駄だと、はっきり宣言されたも同然だった。
 力ない笑いがこぼれた。お互い、どこまで頑固なんだろう。どちらかが諦めなければまっすぐな道が映るばかりだ。
「はぁ……」
 距離を取った彼が、肺の中を空っぽにする勢いでため息をついた。
「やっぱり、勢いで告白なんてしたら駄目ですね」
 半分以上は山の裏側に沈んだ夕日を、正面から受け止めている。ぎりぎりまで細められた目が、やけに輝いているように見えた。
「本当は、わかってたんです。所長は僕のこと大事に思ってくれているけど、僕とは違う気持ちなんだって」
「……私、そんなにわかりやすい?」
「いつも仕事のことばかりなんですもん。仕事が好きすぎて、他が入り込む余地がないっていうか」
 何年も前に振られたときも同じことを言われた。その頃はまだ事務所を立ち上げたばかりで必死だったせいもあるが、仕事好きは当時も変わらなかった。
「それなのに……恋人の振りしただけで我慢できなくなるなんて、ほんと、格好悪い」
 身体の内側からじわりと熱くなってきた。裏を返せば、それだけ想いを募らせていたという証なわけで……。
 さっきの熱烈な告白たちを思い出して、自然を装って目線ごと俯く。
「何ですか、その顔。もしかして、今さら恥ずかしがってくれてるんですか?」
「い、今さらって、だって、いきなりだったし」
「でも、そういう反応してくれたんで、ちょっと自信つきました」
 そのまま歩き出した背中を、少し迷って追いかける。迷いを吹っ切った態度に見えるのは気のせいなのか。
 だとしたら、何を考えているのか。

「あなたの気の済むまで、相棒でいてあげます。その間に、絶対惚れさせてみせます。僕の諦めの悪さはよくご存じでしょう?」

 顔だけ振り返った彼は、あのときと一緒の笑顔を浮かべていた。
 社員として彼の採用を決めたときと、同じ。
「……何よ。一人で勝手に解決して、勝手に決めて」
 わざと彼を追い抜いてやった。聞こえた笑い声は空耳に違いない。
「大事な相棒が辞めるんじゃないかって心配だったんじゃないですか?」
 すぐ隣に並んだ彼の顔が目に浮かぶようで、正直悔しい。反論はしないが多分正しい。
「いいわ。あなたの挑戦、受けてあげる。でもそう簡単にいくかしら」
「長期戦はとっくに覚悟してます。でも、今まで通りだと思ったら大間違いですよ」
 回り込んできた彼の顔が、やけに近い。いつの間にか顎も掴まれて、動けなくなっていた。
「ちょ、っと。まだ付き合ってないのに、反則じゃない?」
 彼を至近距離で見つめるのは初めてだった。改めてなかなか整っていると実感する。それを活かして何度か偵察に向かわせたこともあった。最初は初々しかったけれどだんだん板についてきて頼もしく感じると同時に少し寂しさも―― 「また緊張してる。隠そうとしても無駄ですよ」
 呆気なく見破られた。
 いや、それよりもキスをされた。口ではなく頬だが、キスにかわりはない。
「じゃ、いい加減行きましょうか。帰れなくなっちゃいますしね」
 反射的に繰り出した拳は虚しく空振りに終わった。そのまま小走りで逃げていく背中をすぐ追いかける。
「頬もだめじゃない!」
「あれ、頬へのキスは親愛の証だって知らないんですか? 親が子どもにやったりするじゃないですか」
「私たちの関係は今そういうのじゃないでしょ!」

 もしかしたら、早まったかもしれない。
 相棒を失わない代償に手元にやってきた、変化の確定した日々を想像しただけで落ち着かない。
 これも、彼の作戦?
 だとしたら、バス停に着くまでにいつもの私を少しでも取り戻さなくちゃ。
 戦いはもう、始まっているのだから。

#お題もの

(対象画像がありません)

——欲に負けた瞬間、ひと夏の過ちになると思った。でも、手のひらの上だったんだ。高…

ショートショート・BL

#R18

ショートショート・BL

NotOneSummerLOVE


——欲に負けた瞬間、ひと夏の過ちになると思った。でも、手のひらの上だったんだ。
高校生、同級生同士です。

-------

 少し色褪せた木目の天井を見つめていた。
 見つめておく必要があった。
 隣から意識を逸らしておく必要があった。

 最初はただの同級生だった。
 席替えをした時、前の席に彼がやってきたのをきっかけに、友達同士に変化した。
 いつしか親友同士へとなり、……
 驚くほど馬が合った。考え方は正反対、好きなものは被らない、けれど他の誰よりも、隣で呼吸をするのが楽だった。

『お前、今こういうこと考えてたろ』

 それが彼の口癖となるのに時間はかからなかった。その予言はほとんど当たっていたからだ。

『お前はわかりやすいんだよ。まあ、俺が理解しすぎてるだけかもしれないけど』

 ただのからかいとも取れる言葉が、嬉しかった。切れ長の目を細めて、口角を少し上げたさまが、格好いいとさえ思えた。

 ……逸らす必要があるくらい彼を好きになっていたのだ。

 冷房は十分に効いている。
 背中にじっとりと感じる熱は、明らかに隣のせいだった。
 どうしてこうなったのか思い返してみる。夏休みの宿題を見てもらいたくて――本当は一緒にいたくて――彼の家に押しかけた。一時間もすると集中力は切れて、意外に長い睫毛とか、自分で整えているのかちょうどいい太さの眉をちらちら盗み見るようになったら、呆れたように気分転換のテレビゲームを提案された。それに敢えて熱中していたら思った以上に疲弊してしまい、互いに大の字に寝転んで、気づけば彼だけが寝ていた。そういえば寝付きのよすぎるタイプだと言っていた。
 エアコンの風では打ち消せない呼吸音が左耳をくすぐる。――寝息だけを意識的に拾おうとしているのは明白だった。
 身体の最奥で激しく打ち鳴らしているような鼓動が続いている。息を吐き出す瞬間も、無駄に熱さを含んだものだった。
  視線はいつしか、テレビの左隣にある本棚へと移っていた。知っている漫画もあれば小難しそうな参考書と思われる文庫、分厚い図鑑など、多種多様な本が四段すべてにきっちりと収められている。
 ここから視線を下ろしたら、無防備な彼へとたどり着いてしまう。今の状態で寝顔を捕らえてしまったら、どうなるかわからない。

「……、ん」

 色を含んだように聞こえたのは特別な目で見ているせいだ。
 だからこそ、ここでとめておかなければならない。

「つか、さ……」

 名前を、呼ばれた。
 今まで一度も、名前で呼ぶなんて、なかったのに。
 まさか、夢を見ているのか?
 夢の中に、「いる」のか?

「ゆき、と」

 魔法にでもかかったみたいだ。鼓動のせいで苦しささえ感じているのに、今にでも飛び立ててしまえそうな気分になっている。
「ゆきと、ゆきと……」
 何でも見通してしまう聡明な輝きに蓋をして、普段より柔らかな表情で寝息をこぼし続ける彼は、理性でつくられた壁を簡単に破壊していく。
 エアコンは、もう役に立たない。
 顔の両端に手をついた。初めて見下ろす、親友と油断している彼の無防備さにむしろ喉の奥を震わせた。
 少しずつ肘を折っていき、腕半分を完全に床につける。
 呼吸が、唇に触れる。皮膚同士はまだ離れているのに熱が伝わってくるような錯覚が襲う。彼の顔だけが、視界を埋め尽くして離れない。
 夢の中でしか成し得なかった距離に目眩がしそうだった。

 好きだ。友達として以上に、好きでたまらないんだ。お前しか考えられなくて、どうしようもないんだ。軽蔑しないでくれ。嫌わないでくれ。

 初めてのキスは彼の飲んでいた麦茶の味が混じっていた。見た目には薄い唇なのに、心地よさを感じるほどに柔らかい。
 口の中に吐息がかすかに入ってくる、それだけで何も考えられなくなる。いつまでも重ねていたいと、欲が頭を出しそうになる。

「っ、んぅ⁉」

 あるはずのない衝撃が、後頭部に走った。反射的に身体を引こうとしても動けない。呼吸ごと奪おうとするような、確信的なキスまでされている。

「やっぱり、襲ってきた」

 ほんの少しだけ距離を取って、目蓋の奥にあったダークブラウンがまっすぐに射抜く。
 再び、唇を塞がれた。
 背中をそわりとした感触が這って思わずくぐもった声を漏らすと、湿った塊が差し込まれる。

「ふぁ、は……っ、ん……!」
「ん……っは、ぁ……」

 これは彼の舌なのか。苦しい。どう呼吸すればいいのかわからない。気持ちいい。
 たくさんの情報が頭の中を圧迫して処理しきれない。ただ口内で余すところなくなぞっていく塊に、ぴくりぴくりと反応するばかりだ。
 ちゅ、と唇を軽く吸われた音で、うつつな状態から戻ってくる。彼の細い指が下唇の端から端までをゆっくりなぞって、吐息に甘い音が重なる。
 なんで。問いかけようと懸命に開いた口からは、引きつった悲鳴が漏れる。

「せっかくだから、こっちも触ってやるよ」

 うそ、だ。
 でも彼の手は確かに、ジーンズを押し上げているモノを捕らえている。形を確認するように、あるいは愛撫するように、ゆるく上下に動いている。
 鼻で軽く笑う声が聞こえた。ベルトが外され、チャックまで下ろす動作を黙って受け入れてしまう。
 両膝が崩れ落ちるのを助長するように、右耳に熱い吐息を注ぎ込みながら直に触れてくる。腰が大げさに跳ねるのも仕方ない。他人に、しかも彼に触れられる日が来るなんて、想像しろという方が無理だ。
 自慰をするように、指全体で根元から先までを丁寧に何度もなぞる。たまに先端からにじみ出ている液体を拭うような動きを取り、さらになめらかな愛撫を重ねていく。

「わかるか? ここから、どんどんあふれてるの……」
「っ言う、なぁ……!」
「無理だね……お前が、エロいのが悪いんだ」

 最初からエアコンがついていないような暑さにまみれている。汗がにじむ。触れ合ったところすべてが、じっとりとあつい。

「……ねえ。俺のも一緒に、触ってほしい」

 触って?
 もう一度ねだる声が、波紋のように頭に響く。
 向かい合わせの体勢になると、明らかな欲に染まった表情と対面してぼうっと見つめてしまう。
 視線で続きを促され、タックボタンを外し、下着越しに一度撫でる。十分な硬度が手のひらに返ってきて、思わず喉を鳴らしてしまう。

「っあ、は……ぁ」

 甘く、待ち望んだとわかる溜め息が自らのものと混ざり合って、身体の奥がひどく反応している。
 触れられている中心に、集まっていく。
「お前の……っまた、大きくなった、ぞ」
 欲情にまみれながらも鋭い光を秘めた双眸と、唇が、ゆるやかな弧を描く。
 とめられない。五感すべてが、彼を求めてやまない。
 彼の一番の熱を、直接感じたい。下着を下ろして、そろりと手を添える。小さな震えを返してきた彼にいとおしさが増して、あふれる液を塗りつけるように全体を愛撫していく。少しずつ大きくなる濡れた音にさえ、煽られる。
 クーラーの風は聞こえない。冷たさも感じない。でも、それでいい。もっとこの熱に浸っていたい。ぼやけた視線を、浮かれた吐息を、交わし合っていたい。
 けれど、腰が軽く痙攣するほどに限界が近いのもまた、同様で。
「一緒に、いきたいんだろ?」
 ふいに耳元へと落とされた囁きに、素直に首を上下させた。
 互いに、撫でる動きを加速させる。鼓動がさらに速さを増す。無意識に伏せていた瞳を持ち上げて彼を捕らえると、唇を重ねた。
 身体全体の熱が倍に膨れ上がって……すとんと落ちる。
 手の中の感触を確かめるように、ゆっくりと握りしめた。

「全部わかってたよ。お前が寂しくなって、俺のところに押しかけてくることも」
 さっきよりも温度の下げられた風が、身体全体を優しく撫ぜていく。
「お前が、ずっと俺のことを好きだったってことも」
 繋がったままの手に、力が加わる。
「いつまでもうじうじしてるから、仕掛けてやったんだ。予想通り食いついてくれて、俺としては大満足だね」
 隣を見やると、推理が的中した探偵を彷彿とさせる笑みが待ち構えていた。
 彼に一番似合う、一番見惚れてしまう表情だった。

#R18

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(画像省略)「雪孝(ゆきたか)さんって流れ星に三回願い事唱えたら、ってやつ信じて…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

叶えてほしい現実的な願いは


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雪孝(ゆきたか)さんって流れ星に三回願い事唱えたら、ってやつ信じてなさそうですよね」
 まとまった休みを、僕の家で一緒に過ごしているときだった。
 前日まで友人と一泊二日の小旅行に出かけていた(のぼる)くんの土産話を聞いている途中、突然なにかを思い出したかと思えば、そんなことを言われた。
「突然だね。まあ、その通りだけども」
「やっぱり」
 隣に座る昇くんは小さく笑った。年齢より幼く見えるその顔に、いつも密かに「萌え」ていたりする。
 子どもの頃、助けてもらった祖父が憧れの人だったと目を輝かせて孫の僕が引き継いだ探偵事務所の門をくぐってやってきてから、一年ほどが経った。
 最初は毛を逆立てた犬のようだった彼も今はすっかりすっかり馴染んだし、先輩の梓くんにもいい感じに可愛がられている。
 なにより、僕の大事な大事な恋人にもなった。
「泊まったホテルの屋上で星空鑑賞会やってたんですよ。予約制だったんで参加できなかったんですけど、流星群が見やすい日だったらしくて」
 それはもったいないことをした。見やすいとはいえど結局は運だから、流れないときは本当に流れないし、腰を据えて観賞できる機会も意外とないものだ。
「見やすくても、流れるときはほんと一瞬じゃないですか? だから三回唱えるなんて絶対無理だよなぁって」
「当たり前だよ。ていうか来るのがわかってたとしても、単なる迷信だから無駄無駄」
 ちょっと言い過ぎたかな? でも理屈が通らない事柄ってどうにも気持ち悪くて納得できないんだよね。昇くんはこんな僕の性格は充分わかってくれているとは思うけれど。
 その当人は、呆れたように苦笑していた。
「ほんとバッサリですね。でも、絶対叶うってわかってたらしてみたいでしょ?」
「うーん、まあ」
「叶う理由は置いといてですよ」
「そりゃあね」
 実用的なところなら最小限の労働で稼げるようにしてほしいとか、夢物語ならなにもしなくてもお金が湧いて出てきますようにとか、まあ、いろいろあるけれど、一番は……
「……なに、ニヤついてるんですか」
 どうやら顔に出ていたらしい。
「そりゃあ、一番叶えてほしい願い事考えてたからね」
 聞くべきかやめるべきか。昇くんの顔にははっきりそう描かれている。でも言った方がたぶん面白く、可愛い方向に転がるだろう。
「絶対叶うなら、愛愛愛! って叫ぶかな」
「あい……?」
 眉根を寄せている昇くんの頬に触れて、続ける。
「昇くんともっとラブラブになりたい、ってこと」
 単なる悲鳴か反論だったのかはわからない。
 唇を食むように何度か角度を変えたキスをし終わると、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのかわからない昇くんの表情があった。
「雪孝さんって変なときに論理的じゃなくなりますよね」
「え、そう?」
「そうですよ! いきなりら、ラブラブとか言い出して!」
 結構本気で願っているんだけどな。今でも充分幸せだけど、たとえば「僕なしじゃ生きられないです!」とか言われてみたい。本当にそうなったら、昇くんらしさが消えてしまうから本気で願っているわけでもないけど、一日くらいなら……。
「だ、大体今も結構そうじゃないですか。おれ、ほんとに雪孝さんのこと……好きですもん」
 視線は逸らしつつ、こちらの服の裾を遠慮がちに掴んで、なんとも可愛らしいことを言ってくれる。なのに僕ったら、ちょっとだけ意地悪したくなってしまった。
「本当に?」
「だったらキスとかしません」
「じゃあそのキス、たまには昇くんからしてほしいな」
 反射的に僕を見た昇くんの瞳がいっぱいに開かれている。昇くんは照れ屋さんだし、僕からするのは全然嫌いじゃないけど、たまにはされる側の立場に立ったっていいでしょ?
「願い事三回唱えれば叶うかな? あーい」
 ずるい、と恋人の表情が訴えている。別に激しくなくても……いや、それはそれで嬉しいし、燃える。
「あーい」
 一瞬視線を伏せた昇くんが、勢いよく距離を詰めてきた。背中にソファーの柔らかな感触が走る。
「あー……」
 三回目の言葉は、押し倒した勢いとは裏腹に優しく、けれど深いキスに飲み込まれた。

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(画像省略)「僕だって必死に頑張ってるんだよー! ひどいよあやと!」 事務所の備…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

やる気スイッチの簡単な押し方


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「僕だって必死に頑張ってるんだよー! ひどいよあやと!」
 事務所の備品(主に飲み物とお茶請け)を補充して戻ると、いきなり所長に抱きつかれた。
「ちょ、ちょっとどうしたんですか!? あ、(あずさ)さーん!」
「大丈夫、たいしたことないから」
 いつも通りのクールな返答だが、彼女の意識がお茶請けだけに向いていることは知っている。
「おいおい、新人に泣きつくたぁいつからそこまで貧弱に成り下がったんだよ」
 聞き慣れない声、しかも結構ドスが効いている。
 最悪の想像をしながらおそるおそる出所を探すと、資料が並べられた棚に見知らぬ男が立っていた。
「あ、あの、取り立てですか?」
「あぁ?」
「す、すみません! つい!」
「お前わざとやってんな?」
「あっ、ち、違うんです!」
 無意識とはいえ、失礼な問いをしてしまった。男は呆れたようにため息をつく。
「まぁいいわ。おい、そいつのやる気をあげろ。お前が適任らしいからな」
 未だ抱きついたままの所長はか細く「梓くんの裏切りものぉ~」と呟いた。その当人はうきうきでお茶請けをひとつひとつチェックしている。
「あの、あなた様はいったいどちら様で」
桐原綾人(きりはらあやと)だ。こいつの尻拭いばっかしてる記者だ。情報屋扱いされてるけどな」
 前髪を軽くオールバックにまとめた目尻の細い彼は、所長を鋭く睨みつけた。が、所長も負けじと桐原を睨み返す。迫力は全然ない。
 しかしその名前、どこかで聞いたことがある。
「……あっ! 所長とよくやり取りしてる!」
 電話のときはかなり砕けた口調だったので、気になって質問してみたことがある。
『腐れ縁の記者よ。情報集めがうまいから、悔しいけどついつい頼っちゃうんだよね』
 まさか所長となにもかも正反対のように見える相手だったとは思いもしなかったが。
「直談判しないとスルーされそうだったんでな。やっぱ来て正解だったわ」
 素晴らしい読みっぷりに拍手したくなってしまった。
「好き勝手言ってくれちゃって……ていうか尻拭いなんて人聞きの悪い! ちゃんとお金払ってるし手伝いだってしてるじゃん」
「毎回すんなり終わらせてくれんなら文句言わねえよ。そもそも終わった試しねえし」
「君の仕事は大変なんだよ!」
「そりゃお互いさまだ!」
 大型犬と小型犬が吠え合っているようにしか見えない。勝手に巻き込まれているおれは誰が助けてくれるのだろう。梓はチェックを終えたものの、食べる物を真剣に吟味しているためか話しかけづらいオーラを発している。
「もー今日はことさらめんど……難しい依頼持ってきてくれちゃってさぁ。知ってる? 僕ここんとこ連日寝不足なのよ。みんなも残業しながら頑張ってくれて、やっと朝に終わったのよ。これでちょっとゆっくりできると思ったら君がやってきたんだよ。ひどくない?」
「気の毒だが知らん。お前にしかできない仕事だから諦めろ。依頼料上乗せするって言ったろ」
 なに?
 聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「上乗せされたってもう頭が働かないよ~。せめて締め切りを二日くらい延ばしてくれたら」
「駄目だ。ケツは今夜十時まで。これでもだいぶ譲歩してんだ」
「ね、(のぼる)くんひどいでしょ? 恋人としてなんとか言ってやってよ」
「ちょっ、なにあっさりバラしてんですか!」
「気にすんな。前に浮かれまくりのこいつから一方的に教えてもらった」
「名前だけだよ。顔を見せるなんてもったいないからね」
「どうでもいいですよ所長のバカ!」
 もう何発か殴りたい気持ちでいっぱいだったが、使い物にならなくなったら困る。
 そう、報酬だ。ただでさえ収入が不安定な我が探偵事務所、もらえるときはちゃんともらって蓄えておかないといけない。梓もあんな状態でなければ同じことを言っていたに違いない。
 桐原の「お前がやる気をあげろ」の言葉をようやく飲み込んで、所長の手を引いて事務所のドアを開ける。
「少し、おれに時間をください」
 来客予定は入れていなかったから、廊下には誰も来ない。ビルの二階には事務所しかない。隠れてこそこそやるには絶好の空間だった。
「所長、疲れているのはわかりますが、なんとかこなせませんか? おれ達も手伝いますから」
「昇くんは依頼内容聞いてないからそう言えるんだよ」
 改めてその内容を聞いて、正直眉根を寄せてしまった。これは確かに、修羅場明けの身にはつらい。所長の訴えもよくわかる。
 内心申し訳ない気持ちを抱きつつ、所長を見上げる。
「でも、報酬を余分にいただけるんでしょう? こんなチャンスめったにありませんよ」
「むー……」
 反論を止めた所長は、じっとこちらを見つめてきた。下がりっぱなしの眉尻が溜まった疲労を表していて、恋人としては今すぐベッドに寝かせてやりたくなる。が、これも多めにもらえる依頼料のためだ。
「じゃあ、今から僕がするお願い、聞いてくれる?」
「おれでできることなら何でもやりますよ」
「ありがとう。とびきり濃厚なキスをしてほしいな」
 さらっと言われて、全身が硬直した。キス? 濃厚?
「ほら、僕たち最近全然触れ合いっこしてないじゃない? 本当は今夜君をめいっぱい抱く予定だったのにそれもなくなりそうだし」
 刺激の強い予定をさらさらと紡がれて突っ込みが思いつかない。確かに恋人らしいアレコレはお預けだったし、欲なんてないと変に恥じらうつもりもない。
「……でも、桐原さんは夜十時までとは言ってますけど、それより早く終わらせれば、時間作れますよ」
 必死に視線をキープして提案する。酷な内容なのはもちろん百も承知だし、所長はたぶん意図に気づいている。
 曇っていた瞳に少し輝きが戻った。
「ということは、昇くんも望んでくれてるんだ?」
「誰だって、恋人といちゃいちゃしたいもんでしょう」
 半ばやけくそのまま、所長の唇を塞ぐ。舌を差し込むと待ちわびていたと言わんばかりに絡め取られた。
 よほど飢えていたのか、舌への、口腔への愛撫が半端ない。久しぶりの刺激に耐えられず、所長の服を必死に掴む。
「っん、ふぁ……あ、」
 壁を挟んでいても二人に聞こえるかもしれないのに、声が抑えられない。背中を撫でる動きさえ甘い高ぶりに変わって、無意識に追いかけてしまう。身体をすり寄せたい衝動と必死に戦っていると、唇が解放された。
「ゆきたか、さん……」
 恋人が満足そうに笑っている。柔和なイメージが完全に消えた、色欲にまみれかけた男がそこにいる。丸眼鏡の奥で、鋭い二つの光がおれに絡みついている。
「続き、絶対するからそのつもりでね。昇」
 そして颯爽と事務所に戻っていった。
「調子に、乗らせすぎちゃったかな……」
 うまく事が進んだこと。恋人としての夜が確約したこと。
 嬉しい気持ちは本物だったが、言いしれない恐怖があるのも本物だった。

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(画像省略) 平日の午後。 忙しくも暇でもなく、どこかのんびりとした空気が漂って…

探偵事務所所長×部下シリーズ

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お役御免はまだまだ先?


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 平日の午後。
 忙しくも暇でもなく、どこかのんびりとした空気が漂っている、いつもの探偵事務所のはずだった。
「ごめん、ちょっと出てくるね」
 そう言い残して足早に出て行った所長を、後輩がぽかんと見送った。さすがに違和感を覚えたらしい。まあ、確かに「あの状態」の所長を見るのは初めてだから仕方ない。というか久しぶりじゃないだろうか。
 少なくとも、彼がこの探偵事務所にやってきてから一度も起こっていなかった。……いや、一度あったかな? そのときは(所長的に)運よく、三浦が体調不良で休みだった。
「あ、あの(あずさ)さん。所長、なんか変な物でも食べてましたっけ」
「……どうして?」
「いや、外出るの相当珍しいじゃないですか。でもそれだけじゃないっていうか」
 両手が空いていたら右に左に動いていそうな素振りを見せながら出入口のドアを振り返る。追いかけたいけれどどこに行くべきかわからない。心情としてはそんな感じだろう。
 ただ、私ならわかる。
 短くため息をついて、びっくりしたように名前を呼んできた背中越しの彼に答える。
「私、探してくるから。悪いけど、事務所をお願い」


 たっぷり二十分はかけて、周りの雰囲気より時間が昔に巻き戻ったような佇まいの喫茶店に辿り着く。
 入口をくぐると、すっかり顔なじみになった店長がわずかに苦笑しながら頭を下げた。毎回お世話をかけますという思いと共に目線を下げ返すと、一番奥まった場所にある二人席に腰掛けた。
「久しぶりに出ましたね、この発作」
 眉根を寄せた所長がにらめっこしているターゲット――一冊の本を指差しながら、出された水を半分まで飲む。今の季節、夕方でもまだまだ暑い。
「三浦くん、びっくりしてましたよ。ほとんど外出ない所長がいきなり飛び出したから」
「……(のぼる)くん、なんか言ってた?」
「気になるなら早く戻ってあげたらどうですか?」
 大事な人の動向を探っておきながら視線も身体も石のように動かない。無駄とわかっていて敢えて告げたのは、これが唯一の対処法だから。
 しかし、三浦と深い仲になってから相当我慢でもしていたのか、眉間の皺がいつも以上に深い。長引きそうな予感に早くも投げ出したくなる。
「……ったく、相変わらずこういう本は己の目線で好き勝手書かれてて反吐が出る。盛大な自分語りすぎて金の無駄だね」
「所長にはそうってだけですし、別に絶対手に取ってって命令されているわけじゃないでしょう。いつも突っ込んでますけど」
「大体数千円払って簡単に解決できるなら誰も苦労なんかしないんだよ。あ、ここに書かれてる手法、僕ならもっとコスパよくこなせるけどね」
「それいわゆるブーメラン発言なんじゃないですかね」
 未だに不思議で仕方ないのだが、頭の中が暴発しそうなくらいに煮詰まってどうしようもなくなったとき、事務所を飛び出すと道中で購入した自己啓発系の本を片手にこの喫茶店に入り、ひたすら毒づくのがお決まりになっている。曰く、「自分ならこうだ、という論を思い浮かべまくっていくうちにすっきりしていく」らしい。敢えて掃除をしたり散歩に出かけたりするとリフレッシュするというのと同等か、いや、一緒に括るのは憚られる。
 とにかく、所長なりの落ち着きの取り戻し方なのだ。
 自分が相手役を務めているのは、偶然にも毒抜き中の所長を見かけてからだった。
『梓くんの冷静なツッコミがすっごく助かるってことがわかったから、できれば付き合ってもらえると嬉しいな』
 普段の所長に早く戻れるなら仕事も滞らずに済む。そのためだけに役目を続けているけれど、面倒なのに変わりはない。
「私、次から三浦くんにバトンタッチしようかな」
 喫茶店自慢のショートケーキをつまみながら呟くと、視線がぐいんとこちらを捕らえた。本を閉じ終えていないのに珍しすぎる。
「や、やだよ!」
「どうせいずれは二人で住んだりするつもりなんでしょう? 私のいないところでこうなってもおかしくないですし、予行演習だと思って」
「む、無理無理! こんな姿を昇くんに見られるなんて無理!」
 ……まったく、本当に無駄にプライドが高い。
 少なくとも三浦は、絶対嫌いにはならない。むしろ、しっかり支えられるようになりたいと決意するタイプだ。
(気づいたらたくましく成長してそうね……)
 その未来はちょっと楽しみかもしれない。例えば、完全に所長を尻に敷いていたりとか……
 ――パタン。
「こ、ここにいたんですね二人とも……!」
 二つの音は、ほぼ同時に聞こえた。
 所長のすっきり顔が見事に固まっている。さすがの自分も驚きを隠せないまま背後を振り向いた。
「三浦くん、どうしてここが」
「いや、やっぱり気になっておれも出てきちゃったんです。来客の予定ないしって思って……」
「私のあとを、追いかけて?」
「途中で偶然見かけたんですけどすぐ見失っちゃったんです。で、手当たり次第探してたらここに」
 一応、三浦が後をつけていることを想定して敢えて遠回りしてみたりしたのだが、偶然なら仕方がない。
「これはもう、神様のお告げなんですよきっと」
 ケーキと紅茶まできっちり平らげて、未だフリーズ中の所長に適当な理由を告げながら席を立つ。本を閉じたなら毒抜きは終わったという証だ。つまり、役目は終わった。
「あ、あの梓さんここで一体なにを? まさかサボりですか?」
「サボりじゃない」
「す、すみません……」
 口にした物はあくまで必要経費だ。何も注文せず留まるだけなんて失礼にもほどがあるじゃないか。
「それに、三浦くんが気になってることは所長が丁寧に説明してくれるから大丈夫」
 助けを求めるような視線を感じた気がするが、あくまで気のせいだろう。というか誤魔化すなんて無理。
「所長。サボりじゃないって、ちゃんと証明してくださいね」
 敢えて身体ごと向き直り、満面の笑顔を向けて、今度こそ喫茶店を後にする。
 所長の情けない悲鳴が聞こえた気もするが、これもまた、気のせいに違いない。

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(画像省略)「所長。これ、頼まれてた資料です」「お、ありがとー。ちょうどいいから…

探偵事務所所長×部下シリーズ

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穏やかに、確実に、時は流れゆく


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「所長。これ、頼まれてた資料です」
「お、ありがとー。ちょうどいいからちょっと休憩しようか。ほら、(あずさ)くんも」
「……わかりました。じゃあ、せっかくなんでお茶請け買ってきますよ。もうすぐなくなりそうだったので。いいですよね?」
 彼女がそう言い出すときは「自分が食べたいものがある」という証拠なのだが、突っ込む者はいない。止めても無駄というより、だいたい素晴らしいチョイスをしているからという理由が大きい。
 かすかな鼻歌をこぼしながら扉をくぐって行った梓を見送ると、牛乳だけを混ぜたコーヒーを応接に使うテーブルに置く。待ってましたとばかりに所長が隣に腰掛けた。
「……うん、おいしい~。すっかり僕好みの味になったね」
「そりゃほぼ毎日淹れてますからね」
「仕事もすっかり手慣れて」
「入所して一年以上経ちましたからね。もちろん、まだまだ勉強不足ですけど」
「そっか、もうそんなに経ったんだ。あっという間すぎて実感がないなぁ」
 うんうんと、納得するように首を上下している所長に同意する。ここに来た当初は、まさか所長と恋人同士になる未来なんて想像すらしていなかった。濃ゆい日々すぎる。
「ここの所員としての貫禄はそれなりについてきたけど、変わらないところもあるよね」
「そう、ですか?」
「うん。結構容赦ないツッコミするところとか、ある意味生意気なところとか」
 失礼なことしか言われていない。まあ、仮にも一番偉い人にうっかりストレートを投げつけてしまうのが悪いのは自覚しているが、所長も所長で特に咎めたりしないのがいけないんだ。
 その張本人はなぜか嬉しそうに笑っている。
「でも僕、(のぼる)くんのそういうところ結構好きなんだよね。なんか、裏表なくて微笑ましい」
 今度は乱された。この人のぶっこみ方、いつもタイミングが読めない。
 どう返すべきかと必死に思考を回していると、肩を引き寄せられた。反射的に視線を向けた先には、やっぱり幸せそうな所長の顔が待ち構えていた。
「ちょ、ちょっと。仕事中ですし梓さん帰ったんじゃないですよ、買い出しですよ、そろそろ戻ってきますって」
「大丈夫だって。梓くんは僕たちの関係知ってるし」
 そうだとしても、実際見られたらたまったもんじゃない!
 ……訴えたところで言うことを聞いてくれないのも、悲しいかな一年の付き合いで学んだことだった。
「……だ、だったら。せめてこれ、やめてくれません?」
 頭を優しく撫で続けている手のひらを指差すも、可愛くないぶりっこ声で拒否された。
「君がここに来てからの日々を思い返してしみじみしてるんだもの、無理無理」
 声が甘くて柔らかくて、反論したいのにできない。なんだかんだで、こういう時に感情を誤魔化さないでくれるところが自分も好きだったりする。
 梓が戻らないことを祈りつつ、ぎこちない動きで身体を寄せていく。左側から伝わってくる、徐々に馴染みつつある熱が心地いい。
 始めの頃は反発ばかりして、人間としても新人としてもまるで駄目な人間だったのに、よくクビにされなかったどころか恋人関係にまでなるなんて、本当人生はどう転ぶかわからない。
 今でも単なる気まぐれなのでは、と不安になることもあるけれど……不思議と、このひとの隣にいるとネガティブな感情はたちまち消えてしまうのだ。
「あ、昇くんなんだか可愛い顔してる」
 頭を撫でていた手で顎を掬われた。訊き返す暇をもらえなかった原因は、唇を覆う柔らかい感触のせい。
「あー、そんな反応されると止まらなくなっちゃうなぁ。もっとしていい?」
「っだ、だめに決まってるでしょ! このエロ所長いいかげんに……!」

 コンコン。
 ごほんごほんっ。

 犯人、いや、救世主は誰か、言わずもがな。
 慌てて隣を突き飛ばし、平謝りしながら救世主を招き入れたのだった。

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(画像省略)「もう、所長! お願いですから片付け手伝ってくださいよ!」 たまらず…

探偵事務所所長×部下シリーズ

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息抜きの場所は恋人の隣だけ


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「もう、所長! お願いですから片付け手伝ってくださいよ!」
 たまらず一喝したおれの声で、仕事机で突っ伏していた所長がのそりと顔を上げた。お客さんと対峙する時だけちょっと精悍になる顔はだらしない姿へと変貌している。
「えー、それは部下の仕事でしょー?」
「ええそうですね。でもお客さんが来るまであと一時間しかないんですよ? それまでにこの小汚い部屋を綺麗にしないといけないんですよ? わかってます?」
 打ち合わせに使う机の上を整えるくらいならもちろん何も言わない。だが足元は調べ物や探し物のために無造作に投げ出されたバインダーやら本やらでぐちゃぐちゃのごたごた状態だし、どこか息苦しいから埃も舞っている気がする。足元と空気を整えないと、おもてなし用の飲み物お茶菓子の用意まではとてもできない。唯一の先輩である(あずさ)はそのおもてなし用の買い物に出てしまっている。
(のぼる)くん、そうは言ってもだね、僕は朝方まで資料をまとめていたんだよ。ものすっごく疲弊してるんだよね」
「じゃあ来てくれたお客さんをドン引きさせてこの事務所の悪評を垂れ流されて最悪潰れてもいいって言うんですね」
 疲れているのはわかっているけれど、敢えて厳しい口調で言わないとこの所長は動いてくれない。
 口も手も動かさないといけないなんて、はっきり言って効率が下がるだけだ。早く「わかりました手伝います」って白旗を揚げてくれないかな……。
「でもまだ一時間もあるよ? 馬鹿でかい事務所じゃないんだから、そんな急がなくても間に合うと思うけどなぁ」
「そうやって余裕かまして、お客さんの約束時間に遅れます連絡に救われたことが何度もありましたよね。それに早く片付け終わればその分休めるじゃないですか」
 仕事のスイッチが入ると何回も惚れ直してしまうほど完璧で無駄がない男に変身するのに、オフだとどうしてだらけやすくなってしまうんだろう。もちろんいつも完璧でいろ、だなんて思ってはいないが、時と場合を考えてほしい。少なくとも今は半分くらいスイッチを入れてほしい。
「いいから、ほら立って! バインダーと本を棚に戻すくらいはせめてやってください。それは所長の方が片付けしやすいでしょ? それだけでもおれは助かりますから」
 所長の机の後ろの窓を開けると、涼しい風が優しく吹き込んだ。一度だけ深く呼吸をしたら、焦燥感が少しだけ落ち着いた。
 よし、続きを頑張ろう。さっきは「潰れてもいい」なんて口走りはしたものの、本当にそうなってほしいわけじゃない。何だかんだでおれは自分のポジションが気に入っているし、所長のことも……誰よりも、好きなんだから。
「昇」
 踵を返したところで、一言名前を呼ばれた。
 反応する暇もなく、おれの身体は所長の膝の上に乗せられていた。
「ちょ、ちょっと! こんなことしてる暇ないでしょ!」
「ファイルの片付け以外も頑張って手伝うから、元気ちょうだい」
 力の抜けた笑みを向けたかと思うと、猫のように頭を胸元にすり寄せてきた。背中にがっつり両腕を回されているので身動きが全然取れず、なすがまま状態になっている。諦めて覚醒した所長に賭けるしかなかった。
 ……仕事モードの所長しか知らない女の人が見たら、どう思うんだろう。まあ、まず幻滅はされるだろうな。でもこうやって甘えてくるところは可愛いってなるかも。ギャップ萌えとかいうやつ。おれも時々感じることあるし……。
「呆れてるでしょ」
 すっかり全身の力が抜けてしまって、ぬいぐるみのような気持ちでいたら、いつの間にか所長に見つめられていた。
「……所長の言葉を信じてるだけですよ」
「僕はね、君につい甘えちゃうんだよ」
 頭を優しく撫でてくれる。つい目を閉じたくなる心地よさだった。
「結構しっかり者だし、いろいろお小言言うけど、僕への気持ちが全然変わってないっていうのもわかるから、ついね。すっごく頼りにしてるんだ」
 思わず息が詰まった。完全プライベートじゃない時にそんなことをはっきり言わないでほしい。
「そうやって素直なところも甘えたくなるんだよなぁ。二人きりになると未だにせわしなくしてるのも可愛いし」
 変な声が出そうになった口を、ぎりぎり手のひらで覆った。何もかも見破られている。急激に顔が熱くなってきた。
 目の前の所長が、なぜか困ったように笑っている。また、おれが自覚ないまま所長いわく「欲に繋がるスイッチ」的なものを押してしまったらしい。そのたびに一応気を引き締めるけれど、正解が未だにわからない。
 口元の覆いをそっと外して、所長の顔が近づいてくる。自然と瞼を下ろした。少しかさついた感触と、ほんのりとしたコーヒーの香りで包まれる。
 触れるだけのキスが何度も降ってくる。お互いに物足りないのはわかっていた。それでも多分、ほんの数センチ距離を詰めても所長はそっと押し戻すだろう。根は真面目でちゃんと大人なのだ。
「……あーあ。全く、惜しいなぁ。今の昇、本当に可愛くてすごく色っぽいのに」
「なんですか、それ……」
 軽いキスでも、何度もされたら身体が熱くなるんだな……。
 仕事があるのに、早くしゃんとしないと。
「ねえ、急遽休みになりました、ってしたらダメ?」
「ダメに決まってるでしょう」
「そこは普通、特別ですよっていうところじゃない?」
「寝ぼけたこと言わないでください!」
 ……大人、はやっぱり撤回しよう。
「そういう冗談を言えるってことは、もう元気になった証ですね。ほら、片付け再開しますよ! 梓さんももうすぐ帰ってくるだろうし」
 勢いをつけて立ち上がる。事務所の出入口近くに置いてある時計を見たら、タイムリミットまで四十分を切っていた。いよいよ焦らないとまずい。
「本当、憎たらしいほどしっかりしてるよね。部下に相応しくて助かりますよ」
 ふてくされている。片付けはしてくれるようだが、明らかにテンションが低い。これはしつこく引っ張るタイプの方だ。
 こうなったら、一肌脱いでやるしかない。
 のろのろとバインダーを拾い始めた所長の隣にしゃがみ込んで、強引に顎を持ち上げる。
「……さっきの続きも、仕事終わったら付き合いますから」
 最終的におれがこうして折れるから、所長の甘え癖も直らないんだろうなぁ。
 そう自覚していても弱いから、おれ自身もどうしようもない。

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(画像省略)簡単にキャラ設定をまとめています。■三浦 昇(みうら のぼる) 24…

探偵事務所所長×部下シリーズ

探偵事務所所長×部下シリーズ

簡単なキャラ設定


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簡単にキャラ設定をまとめています。

三浦 昇(みうら のぼる) 24歳

小学生の時、「探偵のおじさん」に助けてもらったことがある。
それ以来、もらった名刺を宝物に「絶対にここで働く」という目標を持って生きてきた。
一途で基本真面目。所長や先輩にはよく振り回されている。


諸見 雪孝(もろみ ゆきたか) 32歳

三浦が勤める探偵事務所の現:所長。祖父から引き継いだ。
現実的で非科学的なものを認めない。
オンオフがわりと激しめ。好きなものには執着が強いタイプ。


田野上 梓(たのうえ あずさ) 28歳

三浦が来るまで、唯一の所員だった。
基本的にクール。二人のことは軽くあしらいがちだが、二人の仲は応援しており、温かい気持ちで見守っている。
お茶請け(お菓子)に目がない。


桐原 綾人(きりはら あやと) 33歳

記者だが、情報を集める手腕に長けているため、雪孝には情報屋扱いされている。
雪孝とは腐れ縁。
ちょっと迫力ある見た目で背も高いため、威圧感を与えがち。
口ではなんだかんだ言いながらも、雪孝のことは頼りにしている。

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(画像省略)毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「白」…

ショートショート・その他

#[300字SS]

ショートショート・その他

【300字SS】つかの間、染まった先に


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毎月300字小説企画  のお題に挑戦しました。お題は「白」です。
このあと主人公の幻想が無残に打ち砕かれるような出来事が起きるかな、なんて考えながら書いてました(鬼畜

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 伸ばした手は、虚しく空を掠めた。
 たぶん、無意識に回避したのだ。
「どうしました?」
 立ち止まった彼女はこの手を掴もうとしたけれど、直前で引っ込める。
「すみません、なんでもないんです」
「でも」
「さ、行きましょう」
 彼女は綺麗だ。不純物などない世界で生きてきた人だ。だからこそこんな人間にも優しくしてくれる。
 ゆえに実感する。
 安易に触れてはいけないと。ほんの少しでも穢れに触れさせてはならないと。
「お礼を、言わせてください。私が目的を果たせるのは、貴方のおかげです」
「……もったいない、お言葉で」
 短い間でも彼女の隣を歩けたのは一生の宝物に違いない。

 ——もうすぐ、現実がやってくる。夢が終わる。

#[300字SS]

2023年12月 この範囲を1話→最新話 の順番で読む この範囲をファイルに出力する

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(画像省略) ある日のこと。「白石、ほら。このシャツ欲しがってたろ? やるよ」「…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

回数の多いサプライズ


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 ある日のこと。
「白石、ほら。このシャツ欲しがってたろ? やるよ」
「え、いいの? マジ? ってかそこそこ高いやつだけど」
「お前が絶賛してたの気になって買ってみたからついで」
 またある日のデート中。
「じゃーん。これなんだと思う?」
「……え、これアレじゃん! 限定の! な、なんで!?」
「お前がめっちゃ悔しがってたから探しまくって手に入れたんだよ。ちゃんと定価でな」
「よ、よく見つけたな……って、え? おれが、ってことは」
「そ。お前にプレゼント」
「いやいや金払わせろって! 上乗せさせろ!」
「いーのいーの。俺が勝手にやったことだから」

 大なり小なり、こんなサプライズが定期的に続いている。
 プレゼントだけではない。例えば自分が「ここ行ってみたい」と口にしたが最後、うっすら忘れかけた頃に仕掛けてくる。値段もおかまいなしに、だ。
 そりゃあ嬉しくないわけはない。西山がいつも本心からしてくれているのをわかっているから素直に受け取っている。
 しかし「なぜ」という疑問が湧いてくるのもまた自然だし、単純に西山の懐も気になってしまう。お返ししたいのにそれもさせてくれないのはもはや苦しくさえ思う。
 恋人に喜んでほしいのは、自分だって同じなのに……。
 ひとつ思い当たるのは、原因こそ不明なれどなにか悩みがあるのかもしれないこと。
 いや、こちらにその原因があると考えた方がいいだろう。
 そうとなれば早速行動に移さないと、西山が心配だ。


「ありがとう。ところで話がある」
 西山の家で、ずっと食べたかったお菓子をありがたく一つつまんだあと、そう切り出した。
「……白石?」
 満足そうな笑顔が瞬時に曇る。深刻な雰囲気を出したつもりはないのだが、気負いすぎたのだろう。軽く肩を上下させる。
「お前、なにか悩んでるんじゃないか?」
 敢えて直球勝負に出てみた。あくまで推論に過ぎないものの、こういう時のカンはわりと当たる。
「え、悩みって」
「サプライズしすぎ。そりゃ嬉しいけど、おれが仕掛ける隙もないじゃん」
 目の前の顔が明らかに強張った。
「迷惑、だったか? それか退屈か」
「どれもハズレ。だったらとっくに見破ってるだろ?」
 負のループにハマりかけている。恋人の関係も加わってから今に至るまで結構順調だと思っていたのは自分だけだったのか? 今になって不安が湧き出てきた。
「おれ、何かやらかした? ならごめん、情けないけど教えてもらえると」
「違う。……ごめん、やっぱりあからさま過ぎたな」
 誤ると、西山は両肘を立てた腕の中に頭をしまい込んで短く呻いた。
「絶対、笑うなよ」
 少しして聞こえてきた言葉は、予想外の内容だった。気が抜けた、というより先が読めなさすぎて身構え方がわからない。
「俺たち、付き合ってもうすぐ一年経つよな」
「あ、ああ……そういえば」
「お前ってほんと、そういうの気にしないね」
「ご、ごめんって。で、それが関係してるのか?」
 よほどためらっているのか、なかなか返答がない。ここは下手にフォローしない方がいいと判断して我慢して待ち続ける。
「……マンネリ、するかもって」
 ひどくか細い声だった。
「まんねり?」
 さっきのを上回る予想外っぷりだった。
「わかってる。俺がネットの記事なんか簡単に信じたのがバカだったんだ。ほんのちょっと不安だった時にそんなの読んじゃったから。そうじゃなくても一年って相手のいいとこも悪いとこも大体わかってきて落ち着いてくる頃だろ。友達でも恋人でもそう変わらないって告白した時は言ったけどちょっとは違う部分もあるからさ」
 必死に弁明を続ける西山に、だんだん約束を反故してしまいそうになってきた。単純に可笑しくて、というよりも可愛くて、だ。多分口元はもう緩んでいると思う。
「マンネリを少しでもなくしたいから、いろいろサプライズしてくれたんだ?」
 言葉が途切れたタイミングで、尋ねる。頭が小さく動いた。
「サプライズしてくれる前のおれ、そんな感じしてた?」
「……それは」
「もちろん、おれは全然そんなこと思ってなかったよ。なのに勝手に心配してたんだ〜」
 ほんのちょっぴり意地悪したくなってしまった。それだけ西山に愛されている証でもあるが、疑われてしまった証明でもある。
 ようやく頭を持ち上げた西山は、羞恥とショックを雑にかき混ぜたような表情をしていた。ドラマで恋人にしょうもない理由で捨てられた相手の姿を思い出す。
「笑わないって、言ったじゃないか」
「え、おれ、笑ってる?」
「茶化すなよ。そりゃ自分でもどうしようもないって言ったけど、本気で不安だったんだからな」
「でも、ただの取り越し苦労だったろ?」
 わかりやすく押し黙る西山がますます可愛い。普段そう言われるのは自分だから、言いたくなる気持ちが初めてわかった。
 それでもいい加減腕を引いてやらないと、デリケートな男はますます袋小路に迷い込んでしまう。この役目は出会った頃から変わらない。
 身を乗り出して、テーブル越しにそっとキスを送る。
「おれの気持ちは、恋人同士になってから確かに変わったよ」
 明らかにマイナスな捉え方をしている西山を優しく小突く。
「ばか。ますます好きになってるってこと。お前とこういう関係にもなれて、よかったって本当に思ってる」
 付き合いしだしてしばらくは、不安がなかったわけではない。
 今は違う。一日一日を過ごしていくうちに、友人だけだった関係の時とはいい意味で違う空気を得て、素直に受け入れられていた自分がいた。それが何日、何ヶ月も続いて、ようやくお互いの言葉が間違っていなかったと飲み込めるようになった。
 この関係を失うなんて、もう考えられない。
「……俺も、同じだ。同じだよ、白石」
 隣に来た西山に、固く抱きしめられる。あやすように背中をぽんぽんと叩くと、肩口に頭をすり寄せてきた。
「勝手に不安になって、本当にごめん。白石のことちゃんと見てるつもりだったのに、全然だ」
「全くだよ。普段のお前なら余裕なのに」
「やっぱり白石がいてくれないと、俺はダメだな。絶対離してやれないから、改めて覚悟してくれよ?」
「言われなくたって」
 そして向けられた笑顔は、同じ男としてちょっぴり腹立つも見惚れるいつもの格好いいものだった。

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(画像省略) ジャケットを脱いでベッドに寝かされた途端、噛みつくようなキスが降っ…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

#R18

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

おまけ:第4話と5話の間 #R18


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 ジャケットを脱いでベッドに寝かされた途端、噛みつくようなキスが降ってきた。ただ乱暴なようでいて、的確に力の抜ける箇所をなぞっては唇をゆるく食み、呼吸したタイミングでまたなぞられる。互いの唾液を使ってわざと濡れた音を立てるたび、喉が震えてしまう。時々唇をくすぐる西山の吐息と声はもはや毒だった。
「は……っ、あ」
「白石……気持ちいいって顔、してる」
「なん、で顔、わかんだよ……」
 こっちは薄闇ではっきりと見えていないのに、ずるい。恥ずかしい。
「よく見ればわかるよ。……なんて、うそ。お前の声聞けば、わかる」
 西山の唇はそのまま首筋をたどり、胸元に到着した途端に止まった。ワイシャツの上から軽く舌で撫でられて、短く声が漏れる。気持ちいいというよりむず痒いというか、とにかく変な感覚だ。
「男も乳首弄られたら感じるようになるらしいぞ。お前のもそのうちそうなるかも、な」
「っん、ぁ!」
 もう片方の胸をきゅっと摘ままれたかと思うと、押しつぶすようにこねくり回される。布越しのせいなのか、少しずつじんわりとした感覚が生まれ始めた。
「にしやま……なんか、変な、感じなんだけど……っ」
 それに応えるかのようにネクタイを引き抜かれた。ボタンを外すためだと気づいた時には、むき出しになった二つの尖りを西山に愛撫されていた。
 右側は濡れた音を立てながら頂を吸われ、軽く歯を立てられて。
 左側は先ほどと同じ行為を、強弱をつけて繰り返されている。
 短い吐息を混ぜた、変に高い声を止められない。
「……も、やめ……!」
「気持ちよさそうに見えるけど?」
 どこか楽しそうな口調に少し苛立ちが浮かぶも、抵抗する力はもちろんない。
「それとも……早く、こっちを触ってほしいんだ?」
 胸にあった手の位置が下がっていき、ある場所で止まる。わずかに力を込められただけでみっともないほどに反応してしまった。
「ああ、ちゃんとたってる……気持ちいいんだ……」
「ばか、しみじみすんな……!」
「いいだろ。だって、俺、本当に嬉しいんだ。お前とこういうことできるのが、嬉しいんだよ」
 暗闇に慣れてきた目線の先で、西山が柔らかな笑みを浮かべている。
「……なんか、おれ、猛烈に恥ずかしい」
 初めての恋人と迎えた夜を思い出した。確かな充足感と幸福感があるのに、どこか甘酸っぱい気持ちとがない交ぜになって落ち着けなかった時とよく似ている。
 よく聞き覚えのある金属音が耳を打ち、正体を悟った頃には剥き出しの己自身を西山に愛撫されていた。
「あ、っく……ぅ、んっ」
 的確に感じる箇所を攻められて声を、ゆるゆると動く腰を止められない。西山の大きな手のひらがたまらなく気持ちよくて、もっと弄ってもらいたいと欲が生まれてしまう。
「はぁ……っにし、やま……ぁ」
「ん……?」
 返事をしながら、片手は頂を指の腹でぐりぐりと刺激し、もう片手は裏筋から根元にかけて爪先を這わせている。まるで陸にあがった魚のように背中が跳ねて、続けようとした言葉が喘ぎに変わった。
「一回、このままイカせてやるよ……」
 濡れた音を存分に響かせて扱いた後だった。
 爪先を這わせていた箇所に、今度はぬるりとした感触がゆっくりと、通り抜ける。さすがに驚いて、懸命に首を持ち上げた。
 西山が、自分のモノを舌で、愛撫している。
 理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
「ん、っあぁぁ……!」
 溜まった熱が外に吐き出されて、全身の力がベッドに吸い取られる。
 気持ちいい。その感想だけが頭を支配している。恋人という関係を差し引いても、同性にされて文字通りの「骨抜き」にされるとは思いもしなかった。
「お前、そんな顔するんだ」
 息を整えるのに意識を集中していたせいで、西山に観察されていることに気づかなかった。
「ばか、見てんなよ……!」
 身体を横向きにして逃げる。が、あっさり両手を捕えられ、布団に縫いつけられてしまった。
「喜び噛みしめてんだよ。どれだけ待ち望んでたと思ってんだ」
 それを言われると押し黙るしかできなくなる。
「ていうか、お前は……いいの?」
 西山も興奮しているのは、吐息の乱れぶりと熱さで充分に伝わっている。
「ん、俺はあとでたっぷり気持ちよくさせてもらうからいいの。そのために、こうしてお前にいろいろしてんだから、さ」
「っ、ひぁ!?」
 息の詰まる痛みが思いもよらない場所から伝わってきて、たまらず西山に向かって手を伸ばしてしまう。
「ごめん、痛かったよな。でも、今だけだと思うから我慢して?」
 労るように頭を撫でながら、唇を緩く食んでくる。心地のいい刺激に全身から余分な力が抜けていく。最初ほど不快感はなくなったが、まだまともな呼吸はできそうにない。
「く……っあ、はぁ……ん」
 ゆるゆると中心を刺激されて、否が応でも甘い痺れが腰から広がっていく。濡れた音が吐息に混じって響き始めた時には、違和感がだいぶ消えていた。
「痛いとか、ないか?」
「それは、っん、ない……けど」
「けど、なに?」
「へん、きもち……わる、い」
 下腹部が鈍痛に似た刺激を受け続けていて苦しい。どう考えても秘部が西山の指を飲み込んでいるせいなのだが一向に止まる気配はない。
「うん……でもさ、もう指が二本入ってんだよ。お前のここ」
 内部で指が蠢いて、反射的に短い悲鳴が漏れる。
 というか、二本ってどういうことなんだ。とても信じられないのに、蠢くたびに嘘でないのを思い知らされる。
「っ!? ひぁ、あ!」
 下半身が大げさに跳ねた。
「……みつけた」
「な、なに? や、ぁあ!」
 声が、腰の動きが止まらない。わけもわからず西山から与えられる刺激に翻弄されている。さっきとは明らかに違う、油断したらあっという間に支配されて抜け出せなくなるような、あまいあまい刺激。
「ま、にし……っあぁ、ん!」
 圧迫感が増した。まさか、また指が増えたのだろうか。考える余裕はない。理性も本能もすべてが、快楽の先を求めてひたすらに手を伸ばしている。
「しらいし……すげー、気持ちよさそう」
 感嘆したような声で呟く西山の肩を縋るように掴む。視界が少し滲んでいておぼつかない。
 こわい。でも彼だから、西山だから信じられる。与えられるはじめてを受け止められる。
「はぁ、っあ……に、やまぁ……!」
「わかってる。俺ももう、限界」
 ずるり、という擬音が聞こえそうだった。急な喪失感に戸惑っている間に、包装を破く音が響いて一瞬身体が固くなる。
 同性同士との知識はなくとも、さすがにこの後どうなるかはわかる。
「……白石」
 見下ろす双眸はまるでアンバランスだった。気遣おうとする気持ちがなけなしと一発でわかるほど、西山はただの獣と化している。
 一握りの理性など、もう、捨ててしまえばいい。
「はやく……お前のしたいように、して」
 懸命に頭を持ち上げて、熱に浮かされた呼吸を混ぜあう。一瞬で終わるはずもなく、ベッドに戻されながら唾液が頬を伝うほどの行為に変わる。
「いくぞ」
 同時に、先ほどとは比べものにならないくらいの圧迫感が下半身を襲った。
 まともに呼吸ができない。痛い、というよりただ苦しい。悲鳴にならない声が途切れ途切れに喉から溢れる。
「白石……っ、もうちょっと力、抜けるか……?」
 首を振る。西山の訴えはわかるがどうにもできない。
「ふ、っん……ぁ、あぁ」
 すっかり萎えてしまった自分自身をやわやわと愛撫されて、全身のこわばりが少しずつ和らいでいく。啄むようなキスを受け取るたびに鼻腔をくすぐる西山の匂いも、落ち着きを呼び戻してくれていた。
「あ……ぁ、っはい、った?」
「あと、すこし」
 そして、安堵したようにゆっくりと倒れ込んできた。
「入ったよ、白石」
「……うん」
 西山の形がはっきりとわかる。
「やっと、つながった」
「待たせて、ごめんな」
「ばか。そんなこと、もういいんだよ」
 西山の柔らかい笑みになぜか泣きそうになる。
「そろそろ、動いて大丈夫か?」
 頷くと同時に、埋め込まれたモノが大きく律動を始めた。余裕がないとわかる動きに、みっともなく声をこぼすしかできない。羞恥を覚える暇すら与えてもらえない。
 指でさんざん刺激された箇所を突かれるたび、じんわりとした痺れが全身を支配していく。強烈な中毒性をはらんだそれを、必死に追い求めてしまう。
「んあ、あぁ! は、っんぁ!」
「すき、だ……白石、すきだ……!」
 応えたいのに、漏れるのは聞き慣れない悲鳴ばかり。せめてもと、唇に覆い被さった吐息に向かって夢中で舌を伸ばした。意識までも溶けそうなくらいに強く絡め取られる。
 手のひらに重ねられた熱をぐっと握り込む。何かに縋っていないと意識が保てないぐらいにぎりぎりの場所をさまよっていた。
 もう限界だと、朦朧としながらも訴えた気がする。もう少しこの時間に浸っていたい気持ちはあるのに、初めて西山を受け入れた身体は正直だった。
「これからもお前のこと、大事にするから……絶対、守るから……」
 おれも。
 ちゃんと返せたか、自信はなかった。
 過敏になっている自身を絞り出すように扱かれて、頭の中も視界も真っ白に塗りたくられてしまったから。

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(画像省略) 多分、鳥のさえずりが聴こえたと同時に目が覚めたと思う。こんな早い時…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

第5話


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 多分、鳥のさえずりが聴こえたと同時に目が覚めたと思う。こんな早い時間に起きることはまれだ。
 西山の腕に包まれて、寝顔をずっと眺めている。そういえば部屋に泊まるのは初めてだった。
 年齢より幼く見えるのは、相当気の抜けた表情だからだろう。見事な「へ」の形をした眉が一番貢献しているかもしれない。口元もよく見ると若干開いている。
 率直に言うと、可愛い。スイッチが入っている時は絶対にお目にかかれない。自然と小さな笑い声がこぼれた。
「……んぁ、……?」
 もぞもぞと布団の中が動く。反対側を向こうとしたのか、下敷きにしている腕が持ち上がりかけ、再び唸り声が響く。
「ごめん、起こしちゃったか」
 ゆっくり開かれた瞳は数秒天井を映し、同じようなスピードでこちらを向いた。この様子だと半分も覚醒していない。
「出勤までまだ時間あるからもう少し寝てなよ」
 頬を撫でると、ほんの少しざらりとした感触が返ってきた。
「……夢じゃ、なかった」
 撫でていた手のひらに唇を滑らせて、心から安堵したように笑う。
「俺たち、恋人同士にもなれたんだな」
「なったよ。うそじゃない」
 大好きなおもちゃを前にした子どもみたいに、無邪気な笑みが返ってくる。
「身体、だいじょうぶか?」
「今んとこ。あんなに手慣れててびっくりしたけどな」
「ばーか。勉強したに、決まってんだろ……」
 次第に瞼が閉じられていく。軽く頬をつねってみるが反応はなく、穏やかな呼吸をただ繰り返している。
「勉強したって、どんだけ自信があったんだよ」
 なんて、本当はわかっている。
 ハッピーエンドだけを信じていたわけじゃない。「臆病」と己を評する男だから、もう一つの可能性も頭の片隅に入れて、準備していたに違いない。
 だとしたら、何を用意していたのだろう。
 ……無駄な想像はやめよう。せっかくの幸福感をわざわざ逃がす必要はない。
 今はただ、相棒であり恋人でもあるこの男の隣を堪能しよう。心地いい気だるさに包まれていよう。
「ありがとう。好きだよ、ずっと」
 この気持ちは、何があっても揺るがない。
 西山がいてくれるなら、きっと、信じ続けることができる。

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(画像省略) 昼飯の誘いは、仕事を理由に断る。 夕飯の誘いも、仕事や他の予定が入…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

第4話


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 昼飯の誘いは、仕事を理由に断る。
 夕飯の誘いも、仕事や他の予定が入っていることを理由に断る。
 週の中日(なかび)にあった祝日の誘いも何とか断ることに成功した。
 とにかく、西山と二人きりの時間をなくしたくて必死だった。


「……白石。お前、露骨すぎだろ」
 とうとう痺れを切らしたのか、昼休みになった途端捕まってしまった。西山がいない時を見計らってエレベーターに乗ったのに、見抜かれていたのかエントランスのすぐ外で待ち構えていたのだ。
 掴まれた腕を容赦なしに引っ張られ、そのまま人気のない場所まで連れて行かれる。
「何のこと?」
「とぼけんな。今だって無視しようとしただろ」
「昨日、具合悪いから断ったの忘れたのかよ」
「嘘だって俺はわかってるから」
 手を振りほどこうとするがびくともしない。早く逃げたい、心が乱される前に、早く。
「……そうやって俺と目、合わせなくなったよな。仕事中もだ」
 やっぱり気づかれていた。
「なあ、なんで? 俺、なんかやった?」
 していると言えばしている。していないと言えばしていない。
「もしかしなくても、この間のドライブが原因?」
 一瞬息をつまらせてしまう。こんな反応、肯定しているも同然じゃないか。
「無理やり連れ出したから怒ってんの?」
「……違う」
「じゃあ、キスしたりしたから?」
「……っ、もう離せよ!」
 もう耐えられなかった。心臓が苦しい。早く西山と離れなければどうなるかわからない。
 強めに腕を振るとあっさり解放された。彼の優しさのあらわれなのか、単に諦めただけなのか、どちらにせよ助かった。
「これだけ教えてほしいんだけど、お前にとって、俺はどういう存在?」
「……大事な、相棒だよ」
 すれ違いざま問われた当たり前の問いに、変わらない答えを返す。西山からの返答はなかったし、あったとしても聞く余裕はない。
 重い足取りで会社に戻ると、先ほどのやり取りがまるで夢だったかのように「相棒」の仮面を被った西山がパソコンに向かっていた。
 ……そう、ある意味現実に戻れていないのは自分。少なくとも会社にいる間は普段通りの自分でいられたのに、公私混同も甚だしい。仕事に打ち込みたくとも、逃避できるほどの忙しさも今はないうえに、担当している案件を西山と受け持っているせいで余計に集中力を乱されていた。
 どうしてそんな普通にしていられるんだ。どうして自分だけがこんなにも心乱されているんだ。どこまで惨めにさせれば気が済むんだ。
 ため息を押し殺しながらメールを送信する。ここに座っていることが苦痛で仕方ない。
「おい、白石」
 妙に堅い声が聞こえて隣を見やると、珍しく焦燥の混じった表情が出迎えた。
「さっき見積のメール送っただろ? 金額、間違えてる」
 慌てて送信したメールを開き、添付した見積書と手元の資料を見比べる。
 ……最悪もいいところだ。
 初めて取引をする企業相手に、よりにもよって、注意していれば防げたはずのミスを犯してしまった。
 背中に氷を押しつけられているような心地になりながら、西山と共に上司に報告する。
「西山が気づいてくれてよかったよ。白石にしちゃ珍しいが、次からは気をつけてくれよ」
「……はい。本当に申し訳ありませんでした」
 震えそうになる声を必死に抑える。いっそ怒鳴り散らしてくれたら、悔しさの矛先を遠慮なく向けられたのに。
「白石」
 一段落ついたところで逃げるように席を外す。少しの間、一人きりになる時間が必要だった。
 それなのに、なんで彼は追いかけてくるんだ。
「……ついてくるなよ。トイレ行くんだから」
「トイレ、そっちじゃないぞ」
「わかるだろ、察せよ。五分くらいしたら戻るから」
「俺のせいなんだろ? 見ない振りはさすがにできない」
 会社じゃなかったら、多分怒鳴りつけていた。
 そうだ、全部西山が悪いんだ。心地よかった空気を一瞬でかき乱して、居心地の悪いものに変えてしまった。
「わかってるなら」
 急に腕を掴まれた。抵抗する暇もなく、トイレの個室に連れ込まれる。
「ごめん、ここしか思いつかなかった」
「そんなの関係ないだろ、なにすん」
 顎を掬われ、唇に親指を押し当てられた。
「お前の中で、俺の印象ずいぶん変わっただろ」
 意味がわからない。なぜ、いきなりそんなことを、こんなタイミングで言ってくる?
「俺も同じだよ。ますますお前のことが好きになった。絶対、手放したくない」
 ぶっ込みすぎやしないか。いっそ指を噛んでやろうか。
 西山がなぜか小さく笑った。楽しんでいるようにも呆れているようにも見える。どちらにしろ不愉快だ。
「悪い。でも、お前があんなに動揺するなんて思わなかったから。『相棒』のままのはずの俺にさ」
 まっすぐに、見下ろされる。
 見つめ返すことしか許されていないみたいに、身動きができない。
「……あのさ。もう、相棒ってだけじゃないだろ?」
 心の中に顕微鏡を埋め込まれた気分だった。隠れようとしてもすぐ発見されて、覗かれる。
 唇の表面をすす、と指が移動していく。
「言ってる意味、わかってるよな?」
 吐息が混じった声は、ただ柔らかいだけ。だからなのか、容赦なく脳内を支配していく。
 流されているだけじゃないかと思いたいのに、強引じゃないかと怒鳴りたいのに、できない。「こいつ」はいつの間に、ここにいたのだろう。いつの間に、心の奥で無視できないくらいに成長してしまっていたんだろう。
「今夜、答え聞かせてもらうから。逃がさないから、覚悟しとけ」
 契約終了を迎える明日まで逃げる、という選択肢はこの瞬間、むなしく砕け散った。

  + + + +

 有無を言わさず部屋に連れ込まれて、ソファーに座るよう命令された。隣に座る西山に手を固く握られているから、逃げ場はある意味封じられたようなものだ。
「言えよ、白石」
「……言えって、なにを」
 声以外、音は無いに等しい。それがこんなにも、鼓膜に痛い。
「なあ、いい加減にしろよ」
 無理やり手を引かれて、目線さえも捕らえられてしまう。
「もうお前の気持ちはわかってんだよ。お前だってわかってるはずだ、なのになんで言ってくれないんだよ……!」
 深く太く刻まれた眉間の皺と揺らめく瞳に心臓がきしむ。痛みを感じ始めた手より何倍も強い力をかけられているようで、吐き出す息が少し乱れる。
「……にし、やま」
 目の前の光景が信じられなかった。
 泣いている。両の頬をぎこちなく、一粒の雫が流れ落ちていくさまを、呆然と見届ける。
「く、そ。俺、こんな……ばかみたい、だ」
 ここまで弱り切った姿を見たことがない。這い上がれなくなる寸前に声を上げて休息するのが常だったはずなのに、今はその声すら出せない状態に陥っている。
 ……声を受け止める役目は、誰だった?
「……っしら、いし?」
 無意識に、自由な腕で目の前の身体を抱き留めていた。
 西山がぼろぼろな時すぐに癒やしてやりたいと誓っていた自分自身が、刃を振り回して、気づかないうちに傷を増やすだけの存在になり果てていた。
 自らの弱さが、西山にも伝染してしまった。
「やめろ……期待、させんな」
 謝罪の言葉は、身を捩る力と声の弱々しさに消えた。伝えるべきものはそもそも、別にある。
 震える息を一度吐き出す。西山はどんな反応をするだろう。もっと怒るかもしれないし、呆れて愛想をつかされるかもしれない。
 どうなろうとも、みっともない背中を見せ続けるのはいい加減終わりにしないといけない。
「……こわい、んだよ」
 あの時言葉にできなかった、臆病な部分を晒す。
「おれは、お前が本当に大事なんだ。お前と一緒にいる時の空気とか、いろいろ、本当に大事なんだよ。それが……恋人になって、変わるのが、怖い」
 出会ってから一緒に過ごしてきた時間は一番に相応しい宝物で、これからも形を変えず、宝箱にしまい続けていきたい。それが恋人になったことであらぬ変化が起きて、もし、すべてを失う未来に辿り着いてしまったら?
 タイムスリップしてやり直したくなるほど後悔するのは目に見えている。可能性はゼロではない。
「おれは、お前を失いたくないから……隣に、いてほしいから……。ごめん、子どもみたいだよな」
「そんなこと、ない」
 耳に届いた声には、いくらか気力が戻っていた。
「早く言ってくれよ、って思ったけど、言えないなって。その気持ちわかるから、余計に」
 背中に添えられた両手がゆっくりと上下する。
「俺も同じだったよ。お前を好きになった時は、苦しくて、怖かった。こんなのお前に言えるわけないから……ずっと、ぐるぐるしてた」
 確かに、一言で表すなら「不安定」だった時期があった。仕事中すら心ここにあらず、といった瞬間を何度か迎えているほどで、たまらず原因を話すよう訴えても、うまくはぐらかされてしまうばかりだった。
「でも、頭の中でいくら考えても無駄だったんだよ。お前が好きでたまらなくて……我慢なんて、できなかった」
 それが、多分、告白だったのだろう。
「……あのさ。恋人として過ごしてきて、お前が言うような変化、あったか?」
 よく思い出すのは笑顔。契約なんてなかったかのような雰囲気。
「俺は変わったって思ってない。本物の恋人になっても、お前は最高の相棒だよ。そこは絶対揺るがない」
 涙を流して、力なく座り込んでいた男はもういなかった。
「俺たちは、これからも変わらない。そこに恋人っていう肩書が増えるだけなんだよ」
 一ヶ月の恋人関係を提案された時は、とても信じられなかった言葉。
 でも、今はわかる。今まで築いてきた関係が足元からひっくり返るような変化はない。ほんの少しの変化は、悪い方の変化じゃない。
「……今日はお互い、泣き虫か」
 目元に柔らかい感触が触れる。じんわりと熱が広がっていく。

「俺は、白石が好きだ。どうしようもなく、好きだ」

 もう、心配することは何もない。ないんだ。
「……すき、だよ。おれも、お前のこと、好きだ」
 自分の意思で高く築き上げていた壁が音を立てて崩れていく。
 急激に流れ込んでくるのは西山への想い。恋情だけでなく、友情や仲間意識、さまざまな形を成している。
 背中に回した腕に力が込められていく。今まで普通だったのが不思議なほど、この男を求めてやまない。愛おしく思う気持ちに押しつぶされてしまいそう。
「しらいし、苦し……っ」
「どうしよう……おれ、お前のことすげー好きすぎて、苦しいよ……」
 西山のことを散々振り回した罰が下ったのかもしれない。
 言葉で伝えるだけでは、こうして抱きしめ合っているだけでは、満たされない。腹の奥で熱の塊がぐるぐる渦を巻いている。
「お前、なんて顔してんだよ……」
 向かい合った先の西山は苦笑するように口元を歪めた。頬を撫でる手つきはとても優しいのに、どこか焦れったい。
 自然と、身体が動いていた。
「……っし、ら……!」
 かちりと固い音が鳴って、前歯に一瞬痛みが走る。恥ずかしさがもたげかけるも、求める感情にあっさり上書きされた。
「ふ、ぅ……ん……っ」
 口端から唾液が溢れるほどに舌を絡ませて、背中を寒気に似た感触が走り抜けても興奮は収まるどころか、さらに加速していく。
 もっと抱きしめて。
 もっとキスをして。
 もっと、触って。
 離れていく唇を追いかけて、西山の指に止められる。
「……お前のこと、抱きたい」
 静かな口調とは真逆の瞳がふたつ、隠す気のない欲の縄でがんじがらめに縛り付けている。身動きひとつ許さないと言外に警告している。
 ためらいなく、全身を西山に押し付けた。愛欲の最も集まる箇所が太股を擦り、覚えのある硬度にむしろ煽られる。
「おれも……お前が、ほしい」
 早く、満たして。

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(画像省略)『白石、ドライブ行くぞ』 休日の朝、セットしていないはずの目覚まし音…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

第3話


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『白石、ドライブ行くぞ』
 休日の朝、セットしていないはずの目覚まし音の正体は、西山からのメッセージだった。時間を確認すると九時を回ったばかりで、いつもならまだ布団の世話になっている。
『今日は天気いいから絶好のドライブ日和だ! 絶対後悔しないから行こうぜ』
 働かない頭を持て余していると遠慮ない追撃が来た。さすがに機嫌の降下は隠せず、包み隠さず返信にぶつける。
『なんだよ急に……おれ、寝てたんだけど。まだ寝てたいんだけど』
『ごめんごめん。車の中で寝てていいから』
『行くの確定なのかよ』
 正直気が引ける。車という密閉空間に長時間いるとなると、確実になにかしらされそうだ。
『悪いけど、今日は用事があるんだよ』
『嘘だね』
 あまりにも自信たっぷりに断言されて、二の句が継げなくなる。
『反論してこないってことはそういうことだ。お前は嘘が下手だからな』
 見事に見抜かれてしまった。四年分の付き合いはお互い、伊達じゃない。
 結局、西山にうまく丸め込まれる結果となってしまった。


 考えてみれば、西山の車でどこかに出かけるのは初めてだった。免許を持っているのは知っていたが、遊びに行く時は必ず公共交通機関を利用していたから、なんとなく他人を乗せるのは嫌なのだと思っていた。
「実は、誰かを乗せるって初めてなんだよね」
 敢えて選んだ、盛り上がりっぱなしの音楽がちょうど途切れたタイミングで西山がつぶやいた。
「……ああ、だからちょっと緊張してたんだ」
「あ、気づいてた? カッコ悪いな俺」
 恋人らしい雰囲気やイベントは、その緊張感のせいかはわからないが今のところ一切起きていない。昼食はドライブコースの途中によくあるような店だったし、観光地に立ち寄ることも実はしていない。昼以外、ずっと車の中にいる。
「退屈じゃない? ずっと車走らせてるだけで」
 苦笑する西山に、素直に首を振る。
「景色がきれいだから、見てるだけでも結構楽しいよ」
 海沿いのこの道は、多分ドライブコースとして有名なのだろう。車の数が結構多いし、自転車も何台か走っている。
「そっか、よかった。もうすぐ目的地に着くから、もうちょい我慢してくれな」
 その言葉通り、流れていた曲がちょうど終わったところで車が停止した。
「観光地って感じはしないな?」
 駐車スペースは確かにあるが、周りは観光用の建物はもちろん、店もない。ただ前方に砂浜と海が広がっているだけだ。
「雰囲気はいいだろ?」
 してやったり、と言いたげな西山を軽く睨みつける。
「……確かに、いいムードは作れそうだな。もうすぐ夕方だし、ドラマとかでよくあるシチュエーションだよ」
「んな渋い顔すんなって。半分冗談だから」
「半分なのかよ」
 一ヶ月限定の恋人関係だと頭ではわかっていても、つい消極的な態度になってしまう。わがまま以外の何物でもないのだが、西山は小さく笑うだけだった。
「俺、たまに一人でこういうところまで行きたくなるんだよ。そんで、ただぼーっとするの」
「好きなんだ?」
「そうかも。免許取る前もやってたから」
「一人でぼーっと」するのが好きなのに自分を連れてきたのは……。
 いや、やめよう。自ら穴を掘り進めてどうする。
「意外。お前って賑やかなところが好きなんだと思ってた。遊びに行く時もそういうとこが多かったし」
「よく言われるよ。別に嫌いじゃないけど、そういうのばっかも疲れるだろ?」
 西山をいろんな角度から結構見てきたと思っていたが、また新しい一面が露わになった。この関係になってから断続的に発生している。そのたびに胸の辺りが変にむず痒くなるのだ。
 自然を装って前に向き直り、目を細める。綿菓子のような雲の裏からほんのり熱い光を届けてくれる太陽に内心頭を下げた。
「でも、他の人からすると退屈だと思うよ。お前もそうだろ?」
「いや、そんなことはないっていうか」
「というか?」
「……こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、基本、どこでもいいんだ。おれは」
「考えるのめんどいってことか」
「違う違う。もちろん、行きたいとこがあったらちゃんと言うよ。そうじゃなくて、どこでも全力で楽しめるんだよ」
「へえ? 結構珍しいじゃん」
「なのかなぁ。知らない世界を知れるのが楽しいんだよね。前に付き合ってた彼女には本当に私とデートしたいの? って呆れられちゃったけど」
 西山はふうん、と相槌を打ったまま喋らなくなった。変な居心地の悪さは感じず、手摺りに両腕を乗せて薄いオレンジに染まり始めた海を眺める。
 鼓膜を穏やかな風が優しく震わせる。目を閉じると、海辺のコテージで寝そべる自分の姿が浮かんだ。時折、風に乗って聞こえる歓声や背後を走る車の音に現実へ引き戻されるが、寝落ち防止と思うことにした。それほど頭がふわふわして心地がいい。
「楽しいっていうの、嘘じゃないみたいだな」
 いつの間にか見つめられていたらしい。身体がわずかに硬直する。
「俺も楽しい」
 唇が綺麗な三日月を描いている。薄い茶の髪がふわふわと風に遊ばれて、それでも格好いいやつは絵になるらしい。
「白石が一緒だからすごく楽しいし、幸せだ」
 顔の陰影が濃くなったな、なんてことをぼんやり考えていたら、唇に熱が降ってきた。ああ、またキスをされたと理解した時にはその場所に風を感じていて、西山が微笑を浮かべていた。
「普通に受け入れてくれるんだ?」
「あんな一瞬じゃ何もできないだろ」
「先週遊んだ時もキスさせてくれた。今だって、逃げられるだろ」
 今度は生ぬるい風が当たる。どうして身体が動かない? 都会より少ないだけでゼロじゃないのに。
「……おれ達は、今は、恋人同士だから」
 反論の声はまるで力がなかった。激しく暴れているのは心臓だけだ。
 理性の塊は、全身を緩く包んでいるこの空気を振りほどけと警告している。それ以外はいっそ任せてしまえと、余分な力を吸い取ろうとしている。
「じゃあ、もう一回してもいいよな?」
 選択の余地はなかった。腰に腕が回っているから、そもそも逃げ場がないから。
 小さく音を立てて触れ、離れてはまた触れる。角度を変えながら深くなる寸前で上唇をそっとはさみ、離れる。強引さの全くない、まるで慈しむようなキスが与えられた。

 本当に西山は、おれのことを好きなんだ。
 本当に、恋人になりたいんだ。こういうことをずっと、おれとしたいって思ってるんだ。
 おれは違う。違うはずだ。
「好きだ、白石……」
 そのはず、なのに。
 心臓が壊れそうにうるさいのはなぜ。全身がはっきりと熱いのはなぜ。頬を撫でる西山の手に擦りついてしまったのは、気持ちよさに目を閉じてしまったのは、

「……そろそろ、帰ろう」
 不自然にならないように手を外して、背中を向けた。
 帰りの車内でいつも通りを演じる自分に付き合う西山がいじらしく見えて、そんな自分が人生で一番嫌いになった。
 足を引きずるような心地で帰宅してから、膝を抱え込む。
 ――期限まで、あと何日あるんだろう。
 放り投げたままの鞄の中から手探りでスマホを取り出す。
 あと、一週間。

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(画像省略) 西山と一緒にいる間、密かに混乱している。 具体的には、西山という男…

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

ただずっと、隣で笑い合っていたいから、

第2話


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 西山と一緒にいる間、密かに混乱している。
 具体的には、西山という男がわからなくなっている。
「今日はさ、この店で食おうかと思うんだけどどう?」
 スマホに表示されている口コミページの店名を見てすぐにピンと来た。
「ここ、おれが前に気にしてた……」
「そう。ネットで調べてみたら、隠れた名店って感じらしいぞ。地元の人は大体知ってるらしい」
「じゃあ、予約しないときついんじゃないか?」
「ばーか。この俺がしてないわけないだろ?」
「……さっすが」
 茶化しながらも、内心は変にどきどきして仕方がない。
「一ヶ月、試しに恋人として付き合う」約束を交わしてから、見たことのない西山が顔を出すようになった。
 恋人相手だからと言われればそれまでだが、例えば今のように優しい面が目立つようになった。元々そういう性格ではあるものの、頻度が高い。
 おまけに、やたらスマートだ。つい自分と比べて落ち込みたくなるくらい、まるで女性側の立場に置かれたかのような錯覚に陥る。押しつけがましくない雰囲気を醸し出すのが原因とわかっているのに、当たり前に享受してしまう。
 会社にいる時は相棒関係のままなのに、一歩外を出たらさりげなく変わる。
 ……正直、やたらベタベタしてきたり、甘い言葉でも囁きまくったりするのかと思っていた。西山からすれば勝負の一ヶ月、何が何でも自分に惚れさせたいはずなのだ。
「お、着いたぞ」
 おしゃれ過ぎないカフェのような外観だった。木製の引戸と入口近くにある手書きの看板がいいレトロ感を醸し出している。深緑の外壁に沿って並べられた椅子に、一組のカップルと男性の二人組が腰掛けていた。
「やっぱ予約しといてよかったな」
「うん。ほんとありがとな」
 こちらを得意げに振り返る西山に、少しだけほっとした。

  + + + +

 店を後にして、身も心もほくほくしながら駅までの道を歩く。頬を撫でる夜風がとても心地いい。
「すっげーうまかったな。値段も手頃で財布に優しいし」
「ほんとほんと。あのハンバーグ! 写真で見てうまそうって思ってたけどその通りすぎてたまらなかった~」
「お前のリアクション見てて、別のやつ注文したのちょっと後悔したわ……」
「まあまあ、また来ればいいじゃん。おれもまた来たいし!」
 普段のノリで答えたつもりだった。実際、そんな雰囲気だった。
「……本当に?」
 自然と距離を詰められる。
 ひゅっと、短く喉が鳴った。
 触れ合った手を軽く握り込まれる。大切なものを扱うような、強引さのない力加減。
 思わず見上げた先に、相棒でない西山がいた。
「にし、やま」
「俺が誘ったら、また来てくれるのか?」
 込められた意味は明らかだった。
 来たい気持ちだけは嘘じゃない。でも、意味は違っている。
 一度、乾いた喉を動かした。
「……行くよ」
 目線を下ろして、呟く。
 力加減が変化した。ぬくもりがさらに強まる。
「っな、なに?」
 右耳にかすかな吐息を感じた。
「よかった。俺も、同じ気持ちだったんだ」
『西山くんって結構いい声してるよねー』
『あんたもそう思ってた? こう、普段話してる時はそうでもないんだけど、特にプレゼンの時とかいいよねー!』
 この間偶然聞いた噂話を思い出してしまった。
 低すぎない、通りのいい声だ。こんな時でなければ落ち着くような……。
 ――何を分析しようとしてるんだ!
「も、離れろよ……!」
 身を捩って懇願しても聞き入れる気がないのか、ぬくもりが消えてくれない。
「何でそんなに緊張してんだよ。お前にとって、俺は相棒なんだろ?」
「場所考えろって言ってんだよ……!」
 いきなりずるい。油断した。抵抗らしい抵抗もできないままいいように翻弄されている。
 ようやく、言うことを聞いてくれた。左右の体温が違いすぎて、うまく歩けているかわからない。
「びくびくしちゃって、小動物みたいで可愛いの」
 必死に睨みつけてやったのに、当人は涼しい顔で笑うだけ。思い込みでなければ、どこか上機嫌にも見える。

 悔しい。完全に主導権を取られている。
 おれもおれだ、何であんな、過剰に反応してしまったのか。
 不意打ちのせい、場所をわきまえなかったせいと懸命に言い聞かせた。
 こんなのは気の迷いだ。いきなり迫られたから混乱しているだけなんだ。

 そう思っていたのに、あれからさらに変なところばかりが目についてしまう。どれもわかりやすすぎるからどうしようもない。
 少し例を挙げれば、ちょっといいなと思った芸能人を褒めるとどこか面白くない顔をしたり、会社の人間と談話している姿を見られたら「楽しそうだったじゃないか?」とストレートに探りを入れてきたり、話をしたいからとメッセージではなくわざわざ電話を入れてきて、回数も明らかに多かったり。
 まるで周りからじわじわ攻められているようだし、実際そのつもりなのかもしれない。
 わかっていながら、避けきれていない自分がいる。


「そういや、最近よく一緒にいるよな。お前と西山」
 久しぶりに同じ部署の先輩二人と昼食に出かけて安息を得ていたのもつかの間だった。あさっての方向からストレートを食らった気分になりながらも、何とか口の中の物を飲み込む。
「そうですか? 特に変わらないと思いますけど」
「そうかー? んー、そうなのかな……」
「いやいや、お前と昼久しぶりに食うぞ俺。西山いると先超されてばっかよ」
 件の人物は朝から外回りに出ている。急遽予定を入れられてしまったらしく、昨夜軽く愚痴られた。
「仲いいのは知ってるけど、ここんとこさらにって感じじゃん?」
 期間限定の恋人同士だからでしょうか、とはもちろん言えない。
「まあ、白石の同期はあいつしかいないもんな。相棒みたいなもんだろ?」
「そう、ですね。あいつがいると頼もしいですし」
 素直な気持ちがこぼれて、はっとする。無理に関係が変わっている今でも、彼への尊敬やライバル心は変わることなく存在しているらしい。
「俺からしたら羨ましいよ、お前らの関係。なんか、何があっても不動って感じ」
「わかるわかる。だからペアで仕事回ってくるんだろうし」
 ありがたいです、と心持ち小さくなってしまった声で呟くのが精一杯だった。
 微妙な味になってしまった昼食を終えて会社に戻る途中、ズボンのポケットから短い振動が来た。
『今会社に着いたんだけど、もう昼って食った?』
 半ば予想通りの内容が画面を占領している。
『終わって会社に戻るとこだよ』
『マジかー。もう少し早く戻れれば一緒に食えたのに』
 悔しそうな声が脳内で再生できてしまう。別に一日くらい、と呆れる気持ちは確かにあるのに、口元が緩みそうになるのはなんでだろう。
「おー、西山お疲れ。これからメシか?」
 エントランスをくぐったところで、リアルタイムで会話している男と鉢合わせになった。
「お疲れ様です。はい、一人寂しく食ってきますよ」
 西山がちらりと視線を送ってきた。別に悪いことをしているわけではないのに変に後ろめたい。
「今日はお前がいなかったから久々に白石誘えたよ~。全く、たまには譲れよなー?」
 西山の肩に手を置いて、先輩はわざと芝居がかった言い方をする。とりあえずものすごく恥ずかしい。
「ダメですよ~」
 隣に並んだ西山に、軽く抱き寄せられた。
「大切な同期同士、いろいろ話すことがあるんですから」
「はいはい、お熱いこって」
 肩に置かれた手に、わずかに力が込められる。
 冗談ではないと知っているからこそ、乾いた笑いをこぼすしかなかった。